5.自己対象への要求水準≒自己愛の成熟度

 ひとつ前までの文章で、「私達はお互いを自己対象として体験しあって自己愛を充たしあっている」「三種類の自己対象」について書いた。続いて、“自己愛の成熟度”について説明してみようと思う。
 
 [1.他人を映し鏡にして自己愛を充たす][2.理想の対象を介して自己愛を充たす][3.自分に似た対象を介して自己愛を充たす]いずれの場合であれ、自己愛を充たすためには、自分自身の期待に適うような自己対象が必要不可欠だ。

 例えば鏡映的自己対象であれば、自分の期待に適うような水準で褒めて認めてくれる相手が必要になるだろうし、理想化自己対象であれば、自分の期待に適うような水準で理想や憧れを引き受けてくれて、失望するような大きな欠点が目につかない相手が必要になるだろう。

 この際に気をつけておきたいのは、自分の期待に適うような水準でという、アンダーラインを引いておいた部分だ。つまり、特定の誰かを自己対象として体験し、自己愛を充たせるかどうかは、自己対象候補がどうであるか以上に自分自身の主観や要求水準に左右されやすい、ということである。

 例を挙げると、ある生徒が担任教師を理想化自己対象として体験できるか否かは、担任教師が理想や憧れに値する人物かどうかだけでなく、生徒の側が理想やあこがれを主観的に感じる度合いや要求水準によっても左右される、ということだ。要求水準がそれほど高くない子どもなら担任教師を理想化自己対象として体験して自己愛を充たせるかもしれない状況であっても、要求水準が高い子には理想化自己対象としては体験できず、自己愛がさっぱり充たされない、というシチュは大いに有り得る。

 鏡映自己対象に関しても同様で、クラスメートのなかでいっぱしの扱いを受けているだけで十分に自己愛が充たされるという子もいれば、話の輪の中心で常にスポットライトを浴びていなければ自己愛を充たしたように体感できないような子まで、様々だ。


 【自己愛の成熟度と、要求水準】

 つまり、自己対象候補への要求水準には大きな個人差がある

 日常的な、何気ない友人付き合いのなかから鏡映自己対象を体感できるぐらいの要求水準の人や、身近な先輩や先生をも理想化自己対象として体感できるぐらいであれば、割と簡便に、相手を選ばず自己愛を充たしやすい。そういう人は、そう簡単には自己愛欠乏モードに陥りそうにない。

 一方、日常的なやりとり程度ではちっとも自己愛が充たされたと感じず、スポットライトの中心にいなければ心が潤わないような人や、世紀の偉人やアニメヒロインぐらいでなければ理想や憧れの対象に出来ないようなレベルの人は、身近なところに自己対象を探そうと思ってもなかなか見つからないし、日常生活のやりとりのなかで自己愛を充たすためのハードルが高くなってしまう。超人的な才能を持っていてチヤホヤされまくるか、それが出来なければ日常生活のやりとりのなかで自己愛を充たすのを半ば諦めてコンテンツに耽溺するしかない。自己愛欠乏にも陥ってしまいやすそうである。

 後で細かく解説する予定だが、一般的には自己対象への要求水準は子どものうちは高めで、成熟した大人になればなるほど要求水準は低くなっていく、とされている※1。原則としては、自己愛が未熟なうちほど要求水準が高く、成熟するほど要求水準が穏当になる、と考えてもらっても構わない。

 ※1すべてが順調に経過していれば、の話だが。

 「いや、子どもは母親にちょっと褒めてもらっただけでも大喜びするじゃないか。子どもの要求水準はむしろ低いんじゃないか」と反論する人もいるかもしれない。

 しかし、自分の幼稚園時代の記憶を思い出せる人は思い出してみて欲しい。本当に幼い頃は、父親や母親に対して認知できる幅が狭く、知っていることも少ない。中学生なら誰でも気付けるような親の欠点も、幼稚園のうちは認知の狭さや知的蓄積の乏しさゆえに、欠点を欠点として気付きにくい。このため欠点にさえ気付かなければ、錯覚かもしれないにせよ、両親を完璧に近い自己対象として体験しやすい――見方によっては、小さな子どものまだ未熟な自己愛は、認知の狭さや錯覚によって守られている、とも言えるかもしれない。

 このため、“うだつのあがらないおっさん”に過ぎない父親であっても、小さな子どもにはたいがいは理想化自己対象として体験しやすいし、実際には多少の欠点のある母親であっても、その欠点が子どもの側に露呈しない程度であれば、鏡映自己対象として体験できる余地は十分にある、というわけだ。もちろん、論外な父親や母親ではこの限りではないが…。

 ところが思春期あたりまで成長すると話が変わって、自己対象への要求水準が幼児レベルのままだと悲惨なことになる。思春期あたりになってくると、両親や先生や大人達の欠点もかなり目に映るようになるし、お世辞で褒めてもらっているような時にはお世辞だと気付いてしまうような知恵も身についてしまう。にも関わらず、自己対象への要求水準が幼児レベルのままでは、満足のいく自己対象が非常に見つかりにくくなってしまうだろう。 一度知恵の実を食べてしまったら、「完璧に理想的で誇らしいパパ」「完璧に肯定してくれるママ」に相当するような存在は、そうそう娑婆で見つかるわけが無いのである。年齢に伴う認知や知識の拡大に平行して、自己対象に対する要求水準が下がっていかなかったら、大変である。

 21世紀の日本には、平凡な日常生活だけでは自己愛を充たしきれない・補いきれない人がたくさん存在している。また、スポットライトの当たる檜舞台でなければ元気が出てこない人や、実在の異性には我慢ができなくて架空のキャラクターでなければ満足できない人も増えている。こうした状況をみるにつけても、 [身体・認知・知識は立派に成長しているのに、自己愛の成熟が遅延し、自己対象への要求水準が高いまま]、という身体とメンタルの不均衡を抱えながら生きていかざるを得ないのが私達で、現代という時代なのだろうと思う。

 →続き(6.未熟な自己愛の処世術(1)垂直分裂)を読む


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