2.理想の対象を介してて自己愛を充たす(理想化自己対象体験)

  前のテキストで紹介した1.他人を映し鏡にして自己愛を充たすは、ナルシストのうぬぼれの延長線上にあるような、しかしもっとマイルドで社会化された形式だったので、割と自己愛という言葉を連想しやすく、殆どの人に身に覚えのあるものだったと思う。

 けれども精神分析の世界、特に自己心理学の世界では、自己愛の充たし方はほかにもあるとされる。コフートは、もう一つの重要な自己愛の充たし方として[2.理想の対象を介して自己愛を充たす]という方式を挙げていて、[1.他人を映し鏡として自己愛を充たす]と同じぐらい重要視している 。この、二つ目の自己愛の充たし方パターンについてこれから紹介してみる。

 世間一般では、自己愛の充たしかたというと、自分自身に称賛やアテンションを集めたり、チヤホヤされたりするしかないとみなされがちだが、正反対に、称賛やまなざしや承認を、理想の相手に投げかけている時にも自己愛が充たされる、のだ。

・例えば、自分の恩師や先輩に対して尊敬を抱いていられる時。
・例えば、自分の属する会社が、誇れるような偉業を成し遂げている時。
・あるいは、子どもの頃、父親の力強い後ろ姿に憧れを抱いている時。

 上に挙げた三つの例は、どれも[1.他人を映し鏡として自己愛を充たす]には該当していない。しかし、体験したことのある人なら分かるだろうけれど、自分が理想とする対象を誇りに思っている時・素晴らしいと感じている時には、案外、人の心は充たされ勇気づけられるものだったりする。スポーツ中継のなかで、あこがれの選手の大活躍をみていうるうちに、(別に自分が褒められているわけでもないのに)いつの間にか自分自身までが力づけられたように感じたことはないだろうか。スポーツ観戦しない人なら、贔屓のアニメキャラクター、敬愛している科学者や音楽家の活躍などをイメージしてみればわかるだろう。そういった理想の対象となんとなく一体感が感じられるような瞬間、人の心は意外なほど勇気づけられている。

 こうした「理想の対象に憧れや一体感を感じていられる状況の心強さ」こそが[2.理想の対象を介して自己愛を充たす]にまさに該当するわけである。理想の人物・理想の対象が、その理想のイメージを壊さない範囲で憧れを引き受け続けてくれる限り、実は自己愛を充たせちゃうのだ。
 
 だから、たとえ自分自身が称賛や評価を集められず、[1.他人を映し鏡にして自己愛を充たす]が困難な人であっても、理想や憧れを引き受けてくれる対象に恵まれている限り 、自己愛は充たされ得るし、自己愛の補給線を失ってメンタルヘルスが衰弱するような事態も回避しやすい。

 さて、[2.理想の対象を介して自己愛を充たす]という視点でちょっと世の中を眺めてみよう。一見、自己愛を全然充たさずに滅私奉公しているようにみえたたくさんの人々が、実は、物凄く自己愛を充たしまくっていたと気づけるのではないだろうか。

 例えば、戦後復興期に育った団塊世代にありがちな、「会社に滅私奉公している男性社員」や「家庭と子育てに身を捧げている主婦」といった人々は、[1.他人を映し鏡として自己愛を充たす]という視点だけでみると、自己愛をちっとも充たしていないようにみえる。ところが[2.理想の対象を介して自己愛を充たす]という視点で見れば、「高度成長を続ける会社を理想化しながら自己愛を充たしてもらっている」「高学歴にまっしぐらな子どもに理想を仮託することで、子どもとの一体感を介して自己愛を充たしている」……といった自己愛の補給線が見えてくる。この視点でみれば、カルト宗教の教祖に滅私奉公している信者のような人達も、自己愛の超越者などではなく、[理想の対象を介して自己愛充たしまくりの超絶ナルシスト]とでもいうべき人々ということになるだろう。

 なお、[1.他人を映し鏡にして自己愛を充たす]をがめつくやりすぎれば無理が生じる(=ナルシストとして非難されやすくなる)のと同じく、[2.理想の対象を介して自己愛を充たす]に関しても、烈しく求め過ぎるとなにかしらの不都合が起こりやすい。完璧に理想的な対象でなければ自己愛の充たし先に出来なかったり、理想だと思っていた対象のほんのちょっぴりの欠点を見つけただけで勝手に失望して勝手に傷ついてしまったりしやすい。あるいは、カルト宗教の教祖のような「表面的には完璧そうな身振りをみせる危険人物」に烈しく自己仮託してしまってマインドコントロールを受ける羽目になることもある。
 
 [1.他人を映し鏡にする]のであれ、[2.他人を理想とする]のであれ、要求水準が高くなりすぎて、烈しい自己愛の求め方になってしまえば大体ロクなことが無い、ということだ。


 →続き(3.理想の対象を介して自己愛を充たす)を読む


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