「引きこもりは日本固有の現象ではない。韓国や欧米でも、引きこもりは現れてきている」という表現を見かけるようになった。このうち、韓国や台湾のような、日本に比較的近く、儒教的・東アジア的な文化圏で、引きこもりが増えるというのはなんとなくピンと来る。だが、ひきこもりが欧米でも本当に増えているのか?もしそうだとしたら、どういった状況なのか?。このあたりは、Pubmedで“hikikomori”を検索しただけでは、あまり資料が引っかからず、いまいちわからない(2011年11月現在)。
そんな折、2011年の精神神経学会で、「引きこもりの国際比較――欧米と日本」というシンポジウムが開催されることになったので、話を聞きに行ってみるみることにした。欧米とはいえ、フランス・イタリアを中心にした話だったが、余所ではあまり聴けなさそうな話だったので、会場で見聞したものを以下にまとめてみた。
【本文に入る前のおことわり】
・このウェブサイト内のまとめは、会場で見聞した内容を私(熊代亨)がまとめたものです。このため、演者自身の発表重点と、私自身が関心を持った重点との相違が含まれている可能性があります。その点ご注意ください。
・また、演者自身は間違ったことを喋っていなかったけれども、私が会場で聞き間違えて、それを書いてしまった部分が、もしかしたら含まれているかもしれません。そのような部分についての責は私にあります。
・最初の演題に関しては、残念ながら途中入場となってしまったため、前半パートが聴けていません。ご了承ください。
1.日本のひきこもり、ヨーロッパのひきこもり――フランスとイタリアの現状に触れて
(名古屋大学医学部 保健学科 鈴木國文先生)
2.アメリカから見た日本のひきこもり
(ミシガン大学 人類学部 照山絢子先生)
3.フランスの「引きこもり」の現状について&ドイツにひきこもりはいるのか
(名古屋大学医学部大学院精神健康医学/学生相談総合センター 古橋忠晃先生)
4.日本のひきこもりの公的支援の動向と課題をさぐる
(明治学院大学 国際学部/テンプル大学ジャパンキャンパス 清水克修先生 堀口佐知子先生)
【シンポジウムを聴きながら自分が思ったこと】
※以下も2011年10月に記されたものそのままです。
・首都圏はひきこもり支援の選択肢が多いなぁ。と思った。地方で臨床をやっていると、ひきこもり支援に供する「場所」や「サービス」の選択肢が少ないと感じることがままある。
・今回の日本国内の症例発表では、「ひきこもるということ」に積極的な意味合いを見出していて、なんらかの形で社会との接点を取り戻すことに出来ているケースが多く紹介された。こういう考えに至るケースは確かに経験する。その一方で、すべてのひきこもりがそうとも限らず、むしろ、ひきこもりという言葉にネガティブな印象を持つ人も結構いるよなぁとは思った。
・ひきこもりに対する障害者年金の適用については、現行は、かなり強引な制度利用になってしまっていると思う。障害者年金を取得しやすい精神疾患を罹患している事例については話は早いのだが、実際には本当にどうにもならない一群もあるので、もうちょっとなんとかなって欲しいというのは同意。
・精神科臨床サイドは、ひきこもり事例に対して精神疾患の存在を常に意識せざるを得ないが、当事者側が、思った以上に精神疾患について意識していないということを教わり、驚いた。
・「ひきこもりは文化症候群」という考え方は、演者も質疑応答者も皆認めていた。質疑応答のなかで、アメリカで三十年間精神科臨床をやっていたDr.が、「アメリカで三十年やっていたが、ひきこもりも対人恐怖症も全然いなかった」と言っていたのが印象に残った。
・また、質疑応答のなかで「アメリカにひきこもりがいないのは、社会に隙間が無いからかも」という意見が出た。フランスはまだ社会に隙間があるほうだからひきこもれるのかな、と。publicとindividual。アメリカはpublicで埋め尽くされていること。日本は隙間だらけで、publicはあんまり無い。アメリカでは、家庭の中でも容赦なくpubulicでなければならない(ベッドに入るまでは靴を脱げない!)。一方、日本の場合は、individualはともかく、privateはイエのなかに充ち満ちている(玄関で靴は脱いでしまう!)。
・「ひきこもる個人は不幸に違いない。だが、ひきこもりのいない社会が、ひきこもりのいる社会より本当にハッピーな社会なのか」を考えると、なんだか疑わしい、少なくとも意見の分かれるところだろうと私は思った。「ひきこもりの生まれる社会は、ひきこもりのいない社会よりも悪!」という単純な理解は危険そうだ。「儒教文化の国はひきこもりを生み出すから、駄目だよねー」「ジョブズみたいな人は、日本だったらひきこもっていた」みたいなわかりやすい話に乗る前に、ひきこもりのいない国・ちょっと違った形でひきこもりが生まれる国を踏まえてたうえで、東アジアの日本という国の特徴について、もっと知って、考えてみたいと改めて感じた。
そんな折、2011年の精神神経学会で、「引きこもりの国際比較――欧米と日本」というシンポジウムが開催されることになったので、話を聞きに行ってみるみることにした。欧米とはいえ、フランス・イタリアを中心にした話だったが、余所ではあまり聴けなさそうな話だったので、会場で見聞したものを以下にまとめてみた。
【本文に入る前のおことわり】
・このウェブサイト内のまとめは、会場で見聞した内容を私(熊代亨)がまとめたものです。このため、演者自身の発表重点と、私自身が関心を持った重点との相違が含まれている可能性があります。その点ご注意ください。
・また、演者自身は間違ったことを喋っていなかったけれども、私が会場で聞き間違えて、それを書いてしまった部分が、もしかしたら含まれているかもしれません。そのような部分についての責は私にあります。
・最初の演題に関しては、残念ながら途中入場となってしまったため、前半パートが聴けていません。ご了承ください。
1.日本のひきこもり、ヨーロッパのひきこもり――フランスとイタリアの現状に触れて
(名古屋大学医学部 保健学科 鈴木國文先生)
2.アメリカから見た日本のひきこもり
(ミシガン大学 人類学部 照山絢子先生)
3.フランスの「引きこもり」の現状について&ドイツにひきこもりはいるのか
(名古屋大学医学部大学院精神健康医学/学生相談総合センター 古橋忠晃先生)
4.日本のひきこもりの公的支援の動向と課題をさぐる
(明治学院大学 国際学部/テンプル大学ジャパンキャンパス 清水克修先生 堀口佐知子先生)
【シンポジウムを聴きながら自分が思ったこと】
※以下も2011年10月に記されたものそのままです。
・首都圏はひきこもり支援の選択肢が多いなぁ。と思った。地方で臨床をやっていると、ひきこもり支援に供する「場所」や「サービス」の選択肢が少ないと感じることがままある。
・今回の日本国内の症例発表では、「ひきこもるということ」に積極的な意味合いを見出していて、なんらかの形で社会との接点を取り戻すことに出来ているケースが多く紹介された。こういう考えに至るケースは確かに経験する。その一方で、すべてのひきこもりがそうとも限らず、むしろ、ひきこもりという言葉にネガティブな印象を持つ人も結構いるよなぁとは思った。
・ひきこもりに対する障害者年金の適用については、現行は、かなり強引な制度利用になってしまっていると思う。障害者年金を取得しやすい精神疾患を罹患している事例については話は早いのだが、実際には本当にどうにもならない一群もあるので、もうちょっとなんとかなって欲しいというのは同意。
・精神科臨床サイドは、ひきこもり事例に対して精神疾患の存在を常に意識せざるを得ないが、当事者側が、思った以上に精神疾患について意識していないということを教わり、驚いた。
・「ひきこもりは文化症候群」という考え方は、演者も質疑応答者も皆認めていた。質疑応答のなかで、アメリカで三十年間精神科臨床をやっていたDr.が、「アメリカで三十年やっていたが、ひきこもりも対人恐怖症も全然いなかった」と言っていたのが印象に残った。
・また、質疑応答のなかで「アメリカにひきこもりがいないのは、社会に隙間が無いからかも」という意見が出た。フランスはまだ社会に隙間があるほうだからひきこもれるのかな、と。publicとindividual。アメリカはpublicで埋め尽くされていること。日本は隙間だらけで、publicはあんまり無い。アメリカでは、家庭の中でも容赦なくpubulicでなければならない(ベッドに入るまでは靴を脱げない!)。一方、日本の場合は、individualはともかく、privateはイエのなかに充ち満ちている(玄関で靴は脱いでしまう!)。
・「ひきこもる個人は不幸に違いない。だが、ひきこもりのいない社会が、ひきこもりのいる社会より本当にハッピーな社会なのか」を考えると、なんだか疑わしい、少なくとも意見の分かれるところだろうと私は思った。「ひきこもりの生まれる社会は、ひきこもりのいない社会よりも悪!」という単純な理解は危険そうだ。「儒教文化の国はひきこもりを生み出すから、駄目だよねー」「ジョブズみたいな人は、日本だったらひきこもっていた」みたいなわかりやすい話に乗る前に、ひきこもりのいない国・ちょっと違った形でひきこもりが生まれる国を踏まえてたうえで、東アジアの日本という国の特徴について、もっと知って、考えてみたいと改めて感じた。