2.「男からの逃走」に供される少女達

 前頁で紹介した「エロの薄味志向」と地続きの問題として、近年の男性オタク界隈では、自分のジェンダーに否定的な消費者が決して少なくない。このような人達にとって、少女をエロの対象として(男の側からダイレクトに)消費するのは自分自身のジェンダーとの葛藤に直面することに他ならず、忌避されるところである。

 こうした葛藤を迂回するには、感情移入の可能性のあるポジションから男性キャラクターを外し、代わりに感情移入しやすいようキャラクタライズした少女を代役にしておけば良い。わかりやすいところでは『魔法少女まどか☆マギカ』や『ストライクウィッチーズ』においては、二十年以上前のアニメなら男性主人公が占めていたであろうポジションを少女が占めており、そのことに誰も違和感を表明しないぐらいにはこのスタイルは定着している。精神科医の斉藤環Dr.が『戦闘美少女の精神分析(2000)』で指摘した「戦闘美少女」「ファリック・ガール※1 」なども、これに矛盾しない。ジェンダーとしての男性性を少女に預けてしまえば、自分自身の男性性への嫌悪感を回避しながら感情移入できるので、確かにこれは便利な発明だったと思う。

 ※1日本語に直訳するなら「男根少女」
 もちろん、こうしたジェンダーを置き換えた感情移入は、1980-90年代においても先覚者的な男性おたくによって行われていたし、なにより、女性おたく達は「やおい」という様式で遙か先を行っていた。しかし、男性オタク界隈に本格的に定着しはじめたのは21世紀以降と思われ、この点では、男性オタク達は女性オタク達に大きく遅れを取る形を取っている。どうしてそんなに遅れたのか?

 その理由は、【女であること・女をやること】という女性のジェンダー・ロールが以前から十分に厳しく、そこから逃れたいというニーズが80年代から十分存在していたのに対し、80年代の男性においては【男であること・男をやること】という男性のジェンダー・ロールから逃れたいというニーズが相対的に少なかったからではないかと私は推測する。しかしバブル景気-バブル崩壊という一連の流れのなかで男性のジェンダー・ロールの幻想が剥がされていき、と同時に“男の子達の元気がなくなっていく”なかで、【男であること・男をやること】という男性のジェンダー・ロールから逃れたいというニーズが高まってきた。

 「美少女をモノにしたい願望」が、裏を返せば「美少女をモノにしなければならない義務」でもあったことに倦むような男性達にとって※2 、「男性が美少女をモノにする物語」「男性が男性のジェンダー・ロールを果たす物語」はお呼びではない。かくして、物語のなかで男性のジェンダー・ロールの“後始末”を押しつけられた少女達が、文句一つ言わずに戦場を駆けめぐるようになった、のである。

 ※2そして90年代後半以降のオタク界隈には、そのような美少女をモノにしなければならない義務に倦んだ男性・ついていけない男性が大挙流入してきた歴史的背景があった。

 さて、ゼロ年代も後半になってくると、【男性のジェンダー・ロールから逃れたい】というニーズだけでなく、【女性のジェンダー・ロールを獲得したい】というニーズも目立つようになってきた。戦闘美少女への自己投影によって男性ジェンダー・ロールから逃れるのもいいが、もっと女性らしいジェンダー・ロールを楽しめるようなキャラクターに自己投影するのも悪くない――そんなニーズの存在を匂わせるようなキャラクターが人気を博しはじめてきたのは記憶に新しい。

 そのような視点で“いわゆる日常系アニメ”を眺めると、男性のジェンダー・ロールから遠く離れ、「女子高生のキャッキャウフフ」という女性のジェンダー・ロールに自分自身を仮託するのに適したコンテンツである事に気付く。女性特有の姦しさが、ここでは消費対象となっている。


 また『シュタインズ・ゲート』のルカ子や『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』の桐乃の場合は、これらのキャラクターに感情移入することで「いい男に世話を焼いて貰う女性」という、旧来の男性ジェンダーでは望むべくもない、お姫様的なジェンダー・ロールを楽しむことが出来る。そういえば、『インフィニット・ストラトス』で一番人気だったシャルルもこれに近い立ち位置を獲得していた。これらの作品では、男性のジェンダー・ロールに抵抗の無い人は男性主人公に感情移入が可能で、そのうえで女性的なジェンダー・ロールを望む人は女性ヒロインに感情移入が出来るような、良い所取りのキャラクター構成となっており、どちらの客層にも楽しめるよう上手く創られている。    

 →続き(3.「異性キャラクター」が帯びている、想像力の脱臭・純化機能)を読む

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