1.エロという身も蓋もないニーズ
・Togetter――
「なぜみんな少女に世界を託したがるんだろう
リンク先では、男性オタクコンテンツ領域で「なぜ少女に世界が託されなければならなくなったか」について議論されている。興味深い内容だった。
それにしても、「少女に世界の命運を託す」に限らず、日常系の作品なども含め、湯水のように少女キャラクターが登場しては消費されていくさまは、振り返ってみれば不思議なことだ。思春期-成人向けと想定されているはずの男性オタクコンテンツ領域において、2009年現在、成人男性はもとより、少年すら存在感を欠いている。『けいおん!』や『魔法少女 まどか☆マギカ』のような、男性が絶無に等しいキャラクター構成が、もはや例外ではなくオーソドックスになったことは驚きに値する。少年の勇気や冒険が真正面から描写されることは稀で、よしんば描写されるとしても『シュタインズ・ゲート』の岡部倫太郎のように中二病の装いを施されたり、『とある魔法の禁書目録』の上条当麻のように主としてネタとして消費されたりする。
このテキスト群では、どうして男性オタク界隈で少女の氾濫現象が起こっているのかについて、順を追って考えてみたいと思う。
【1.エロという身も蓋もないニーズ(古典的に消費される少女)】
「なぜ少女が湯水のように消費されるのか」をアカデミックに論じるほど美しいと思っているような人は、無視してしまうかもしれない視点。
きわめてシンプルでセクシャルな、「鑑賞の対象としてもエロい想像を膨らませる対象としても、少年よりも美少女のほうが都合が良いから」。このあたりを最もストレートに反映しているのは、二次創作作品――同人誌の世界である。同人誌――最近は、“薄い本”と呼ばれることも多い――には、少女達のあられもない姿が溢れており、その多くは百合的・レズビアン的作品ではないことからも、美少女キャラクターがエロの対象として・客体として消費されているという向きは、それほど軽視すべきではない。
こういう指摘をすると、決まって「『けいおん!』のような日常系のヒロイン達を観賞魚的に消費する人達は、ただ眺めているだけ、ベタにエロに少女を消費していない」という反論が予測されるが、話はそれほど単純ではない。
ひとつには、何でもエロく消費する消費者がそれ相応の割合で存在すること。
例えば『けいおん!』や『らき☆すた』のような作品は、美少女のエロ消費として向いた作風ではない。しかし、世の中にはあまりグルメとは言えない、とにかくエロなら何でも良いというファンも相当数存在しており、それらの作品にも単純エロの“薄い本”が沢山創作され、エロい想像力の出汁として使われていたことは確認しておきたい。
それと、「美少女キャラクターを観賞魚的に消費しているならエロとは無縁、という話はどこまで本当なのか?」という疑問だ。実は、エロの刺激は、唐辛子やワサビの刺激と同じく、人によって適量と体感されるレベルがまちまちで、ハイレベルな刺激に絶えられない人が一定量存在している。直球のエロ同人誌がベストという人がいる一方、ちょっとしたエロでなければ受け付けない人や、プラトニック・ラブでなければしんどい人も含まれている。
数十年前までは、こうした「エロの薄味志向の男性」は目立たない存在か、いたとしても社会的に無視されていた。しかし草食性男子などという単語も流行る今日、「エロの薄味志向の男性」はそれなりに増えているように見える※1 。そうした「エロの薄味志向」の人達にとって、『けいおん!』等の日常系アニメのような、過剰なエロからも感情移入からも心理的距離を取りやすい作品こそが、ちょうど良いぐらいの「エロさ加減」となり得る点は、もう少し意識されても良いように思う。
※1こうした「エロの薄味志向の男性」は、男性ジェンダーに関する問題とも関連があるだろう。このあたりについては、次の頁で述べる。 また、コフートの著書には、コミュニケーションや自己愛充当に関して薄味ぐらいがちょうど良くて、過剰すぎる刺激には参ってしまうという人達についての記載がある。このあたりについては、いずれこのウェブサイトでまとめる予定。
→続き(2.「男からの逃走」に供される少女達)を読む
リンク先では、男性オタクコンテンツ領域で「なぜ少女に世界が託されなければならなくなったか」について議論されている。興味深い内容だった。
それにしても、「少女に世界の命運を託す」に限らず、日常系の作品なども含め、湯水のように少女キャラクターが登場しては消費されていくさまは、振り返ってみれば不思議なことだ。思春期-成人向けと想定されているはずの男性オタクコンテンツ領域において、2009年現在、成人男性はもとより、少年すら存在感を欠いている。『けいおん!』や『魔法少女 まどか☆マギカ』のような、男性が絶無に等しいキャラクター構成が、もはや例外ではなくオーソドックスになったことは驚きに値する。少年の勇気や冒険が真正面から描写されることは稀で、よしんば描写されるとしても『シュタインズ・ゲート』の岡部倫太郎のように中二病の装いを施されたり、『とある魔法の禁書目録』の上条当麻のように主としてネタとして消費されたりする。
このテキスト群では、どうして男性オタク界隈で少女の氾濫現象が起こっているのかについて、順を追って考えてみたいと思う。
【1.エロという身も蓋もないニーズ(古典的に消費される少女)】
「なぜ少女が湯水のように消費されるのか」をアカデミックに論じるほど美しいと思っているような人は、無視してしまうかもしれない視点。
きわめてシンプルでセクシャルな、「鑑賞の対象としてもエロい想像を膨らませる対象としても、少年よりも美少女のほうが都合が良いから」。このあたりを最もストレートに反映しているのは、二次創作作品――同人誌の世界である。同人誌――最近は、“薄い本”と呼ばれることも多い――には、少女達のあられもない姿が溢れており、その多くは百合的・レズビアン的作品ではないことからも、美少女キャラクターがエロの対象として・客体として消費されているという向きは、それほど軽視すべきではない。
こういう指摘をすると、決まって「『けいおん!』のような日常系のヒロイン達を観賞魚的に消費する人達は、ただ眺めているだけ、ベタにエロに少女を消費していない」という反論が予測されるが、話はそれほど単純ではない。
ひとつには、何でもエロく消費する消費者がそれ相応の割合で存在すること。
例えば『けいおん!』や『らき☆すた』のような作品は、美少女のエロ消費として向いた作風ではない。しかし、世の中にはあまりグルメとは言えない、とにかくエロなら何でも良いというファンも相当数存在しており、それらの作品にも単純エロの“薄い本”が沢山創作され、エロい想像力の出汁として使われていたことは確認しておきたい。
それと、「美少女キャラクターを観賞魚的に消費しているならエロとは無縁、という話はどこまで本当なのか?」という疑問だ。実は、エロの刺激は、唐辛子やワサビの刺激と同じく、人によって適量と体感されるレベルがまちまちで、ハイレベルな刺激に絶えられない人が一定量存在している。直球のエロ同人誌がベストという人がいる一方、ちょっとしたエロでなければ受け付けない人や、プラトニック・ラブでなければしんどい人も含まれている。
数十年前までは、こうした「エロの薄味志向の男性」は目立たない存在か、いたとしても社会的に無視されていた。しかし草食性男子などという単語も流行る今日、「エロの薄味志向の男性」はそれなりに増えているように見える※1 。そうした「エロの薄味志向」の人達にとって、『けいおん!』等の日常系アニメのような、過剰なエロからも感情移入からも心理的距離を取りやすい作品こそが、ちょうど良いぐらいの「エロさ加減」となり得る点は、もう少し意識されても良いように思う。
※1こうした「エロの薄味志向の男性」は、男性ジェンダーに関する問題とも関連があるだろう。このあたりについては、次の頁で述べる。 また、コフートの著書には、コミュニケーションや自己愛充当に関して薄味ぐらいがちょうど良くて、過剰すぎる刺激には参ってしまうという人達についての記載がある。このあたりについては、いずれこのウェブサイトでまとめる予定。
→続き(2.「男からの逃走」に供される少女達)を読む