3.「異性キャラクター」が帯びている、想像力の純化・脱臭作用
こちらの続きです。
こうして、ようやく男性オタク達も、やおいの一大文化圏を形成していた女性オタク達に近い消費スタイルを確立させた。作中、カップリングを想像しやすい台詞や構図をキャラクターが示せばすぐさま“くっつけて”しまい、ヤマもオチもイミも無い“薄い本”が大量に同人ショップに出回る有様も、いよいよ似てきている。もちろん、古典的なエロも不滅には違いないだろう。と同時に、「少女同士のキャッキャウフフ」や「お姫様願望」を充たせるような百合的カップリングのニーズは、もはやニッチな楽しみとは言いづらい存在感を示している。さらに一歩進んで「鬼畜モノの同人誌を、サド的な男性目線ではなくマゾ的な少女目線で楽しむ」所まで到達している人も増えているのかもしれない※1。
※1 この点に関しては、おそらく男性と女性のニーズには違いがある。女性のファンが、男性キャラクターに自己投影しながらサドな女性キャラからの鬼畜エロ行為を受け身に楽しむ、という話は寡聞にして聞かない。しかし、男性のファンが、美少女キャラクターに自己投影しながらサドな男性キャラからの鬼畜エロ行為を受け身に楽しむ、という楽しみ方はしばしば耳にする。
そして性別を越境したキャラクターへの感情移入には、ジェンダー・ロールからの逃避のほかにも、もうひとつ、重要な機能がある。それは、想像力を脱臭・純化してしまう機能だ。
例えば男性オタクが男子中学生の主人公に感情移入する際には、自分自身が男子中学生について詳しく知っていることが(良くも悪くも)ついて回る。それは粗暴で制御不能の暴力かもしれないし、体育の授業の後の体臭かもしれないし、子どもっぽい所作かもしれない。とにかく、男性中学生について下手に実体験があるせいで、想像内容がどうしても現実の体験によって制約されてしまいやすいのだ。
ところが女性オタクが男子中学生に感情移入する際には、そういった知識や実体験によって想像力を制約されることが無い。粗暴な暴力も、体臭も、子どもっぽい所作も、知らなければ無視することも都合の良い改変を施すこともたやすい。男子中学生にありがちな“欠点”を締め出すのも、理想化するのも自由自在である※3。
※3たとえ兄弟のいる女性であっても、四六時中兄弟のことを観察しているわけではないうえ、気に入らない部分は「うちの兄(弟)だけのダメな悪癖」とでも決めつけてしまえばこうした問題はクリアーされる。少なくとも、自分の性別に関して知っている以上に詳しく異性を知ることは絶対にあり得ない。
このような想像力の脱臭と理想化は、男子中学生について知らなければ知らないほどスムーズに進む。女子中学校→女子高と通ってきて男子との交流が乏しかったオタク一筋の女性などは、そういう意味では既知であることの制約から最も自由に想像を膨らませることができる。
同じく、女性オタクが女子中学生のヒロインに感情移入する際には、自分自身の女子中学生に関する知識や実体験がついて回ってしまうが、男性オタクが女子中学生のヒロインに感情移入する際には、本物の女子中学生にありがちな“欠点”を、無視するなり理想化するなり、好き放題に楽しむことが出来る。こうした想像力の脱臭と理想化は、女子中学生について知らなければ知らないほどやりやすいので、女子とコミュニケーションが無かった男性であれば、特に滞りなく女子中学生ワールドを理想化して耽溺できよう。
ここで必要とされているのは、「私が想像したい理想の男子」「俺が想像したい理想の女子」であって「本当にリアルな男子」「本当にリアルな女子」ではない。
ときに、『らき☆すた』や『けいおん!』がリアルな女子高生の生活から乖離しているからダメだという批判を目にすることがあるが、これは的外れな批判であり、コンテンツとキャラクターの担っている機能を理解していないと言わざるを得ない。「女子学生のキャッキャウフフ」という想像を思うさま膨らませ、自己耽溺なり観察なりを楽しみたい消費者にとって、リアルから乖離しているからこそ『らき☆すた』『けいおん!』は良いのであって、なまじ、リアル臭のきつい作風では、想像が妨げられるだけでなんにも面白く無いのである。おそらくこれはやおいについても或る程度当てはまり、異性キャラクターによる脱臭作用の弱い、悪い意味で写実的すぎる作品はやおいに向いていないだろう。そういう意味では、戦い・冒険・ファンタジー・スポーツを専ら描き、キャラクター同士の思わせぶりな台詞に充ちた少年漫画的な作品群が、しばしばやおい作品として秀逸な成果を挙げるのは、当然なのかもしれない。作品内の情報の大半がバトルや非日常で埋め尽くされ、キャラクターの関係を示唆するシーンが標識的にポツポツ登場するだけで、コミュニケーションの写実性は重視されていないのだから。
→続き(4.少女の濫費状態はいつまで続くか?)を読む
こうして、ようやく男性オタク達も、やおいの一大文化圏を形成していた女性オタク達に近い消費スタイルを確立させた。作中、カップリングを想像しやすい台詞や構図をキャラクターが示せばすぐさま“くっつけて”しまい、ヤマもオチもイミも無い“薄い本”が大量に同人ショップに出回る有様も、いよいよ似てきている。もちろん、古典的なエロも不滅には違いないだろう。と同時に、「少女同士のキャッキャウフフ」や「お姫様願望」を充たせるような百合的カップリングのニーズは、もはやニッチな楽しみとは言いづらい存在感を示している。さらに一歩進んで「鬼畜モノの同人誌を、サド的な男性目線ではなくマゾ的な少女目線で楽しむ」所まで到達している人も増えているのかもしれない※1。
※1 この点に関しては、おそらく男性と女性のニーズには違いがある。女性のファンが、男性キャラクターに自己投影しながらサドな女性キャラからの鬼畜エロ行為を受け身に楽しむ、という話は寡聞にして聞かない。しかし、男性のファンが、美少女キャラクターに自己投影しながらサドな男性キャラからの鬼畜エロ行為を受け身に楽しむ、という楽しみ方はしばしば耳にする。
そして性別を越境したキャラクターへの感情移入には、ジェンダー・ロールからの逃避のほかにも、もうひとつ、重要な機能がある。それは、想像力を脱臭・純化してしまう機能だ。
例えば男性オタクが男子中学生の主人公に感情移入する際には、自分自身が男子中学生について詳しく知っていることが(良くも悪くも)ついて回る。それは粗暴で制御不能の暴力かもしれないし、体育の授業の後の体臭かもしれないし、子どもっぽい所作かもしれない。とにかく、男性中学生について下手に実体験があるせいで、想像内容がどうしても現実の体験によって制約されてしまいやすいのだ。
ところが女性オタクが男子中学生に感情移入する際には、そういった知識や実体験によって想像力を制約されることが無い。粗暴な暴力も、体臭も、子どもっぽい所作も、知らなければ無視することも都合の良い改変を施すこともたやすい。男子中学生にありがちな“欠点”を締め出すのも、理想化するのも自由自在である※3。
※3たとえ兄弟のいる女性であっても、四六時中兄弟のことを観察しているわけではないうえ、気に入らない部分は「うちの兄(弟)だけのダメな悪癖」とでも決めつけてしまえばこうした問題はクリアーされる。少なくとも、自分の性別に関して知っている以上に詳しく異性を知ることは絶対にあり得ない。
このような想像力の脱臭と理想化は、男子中学生について知らなければ知らないほどスムーズに進む。女子中学校→女子高と通ってきて男子との交流が乏しかったオタク一筋の女性などは、そういう意味では既知であることの制約から最も自由に想像を膨らませることができる。
同じく、女性オタクが女子中学生のヒロインに感情移入する際には、自分自身の女子中学生に関する知識や実体験がついて回ってしまうが、男性オタクが女子中学生のヒロインに感情移入する際には、本物の女子中学生にありがちな“欠点”を、無視するなり理想化するなり、好き放題に楽しむことが出来る。こうした想像力の脱臭と理想化は、女子中学生について知らなければ知らないほどやりやすいので、女子とコミュニケーションが無かった男性であれば、特に滞りなく女子中学生ワールドを理想化して耽溺できよう。
ここで必要とされているのは、「私が想像したい理想の男子」「俺が想像したい理想の女子」であって「本当にリアルな男子」「本当にリアルな女子」ではない。
ときに、『らき☆すた』や『けいおん!』がリアルな女子高生の生活から乖離しているからダメだという批判を目にすることがあるが、これは的外れな批判であり、コンテンツとキャラクターの担っている機能を理解していないと言わざるを得ない。「女子学生のキャッキャウフフ」という想像を思うさま膨らませ、自己耽溺なり観察なりを楽しみたい消費者にとって、リアルから乖離しているからこそ『らき☆すた』『けいおん!』は良いのであって、なまじ、リアル臭のきつい作風では、想像が妨げられるだけでなんにも面白く無いのである。おそらくこれはやおいについても或る程度当てはまり、異性キャラクターによる脱臭作用の弱い、悪い意味で写実的すぎる作品はやおいに向いていないだろう。そういう意味では、戦い・冒険・ファンタジー・スポーツを専ら描き、キャラクター同士の思わせぶりな台詞に充ちた少年漫画的な作品群が、しばしばやおい作品として秀逸な成果を挙げるのは、当然なのかもしれない。作品内の情報の大半がバトルや非日常で埋め尽くされ、キャラクターの関係を示唆するシーンが標識的にポツポツ登場するだけで、コミュニケーションの写実性は重視されていないのだから。
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