9.未熟な自己愛への道
こちらの続きです。
さきに、子ども時代に自己愛が成熟していくための条件まとめとして
1.乳幼児期の、両親の弱点や欠点にまだ気付きにくい年頃から、
2.子どもにとっての自己対象としての役割を引き受けている親のもとで
3.親を自己対象として体験しつつ、“適度な欲求不満や失望”にも遭遇しながら
4.それでいて欲求不満や失望の程度・頻度が極端ではない
と書いた。
では逆に、自己愛の成熟が阻害され、幼児そのままの自己愛の大人はどういう条件下で生じてくるのか?上記条件の逆をいくような生育環境下では、自己愛の成熟は阻害されやすくなり、自己対象への要求水準が幼児レベルで止まってしまいやすいと考えられる。この文章では、「未熟なままの自己愛に陥りやすい生育環境や状況」について触れてみる。
【自己愛の成熟が阻害されそうな条件】
以下に、“自己愛成熟を阻害するファクター”を挙げてみる。ただし、実際に自己愛の成熟が停滞した人で、以下のファクターの一つだけが該当している人はたぶん稀で、複数、または全部のファクターに引っかかっていた人こそが、まさに自己愛の成熟が進まないまま大人になっていく、という風に見受けられる。
1.子どもの自己対象として両親(養育者)がまともに機能していなかった
自己愛が成熟していく為には、両親(養育者)を自己対象として体験する必要があり、それは年齢相応のものでなければならない。例えば三歳児や四歳児に、中学生や高校生が学校で出会うような(幼児からすれば要求水準を到底クリアしているとは体験できない)自己対象で我慢しろといったって、無理としかいいようがない。年齢相応の要求水準をクリアするような自己対象として、養育者が子どもの自己愛を充たす役割を引き受けてくれていなければならない。
しかし世の中には、鏡映自己対象/理想化自己対象としての役割をあまり(時には全く)引き受けてくれない養育者もいるわけで、そのような養育者のもとで育つと、自己愛の成熟はそこで止まってしまう。例えば幼児の頃から親のマリオネットとしてひたすら使役させられてきた人や、全く共感的ではない養育者に曝され続けてきた人などは、自己対象を通して自己愛をロクに充たせずに育っている可能性が高く、自己愛の成長が停滞している可能性が高い。
2.自己対象としての親に対する失望の速度が急激過ぎた
冒頭で書いたように、自己愛の成熟には、自己対象へのちょっとずつの失望や“最適な失敗”があっても構わない……というより必要である。だが、ある年齢の時期に、ものすごく急激な形で自己愛が充たされなくなってしまうような事態を迎えると、彼/彼女の自己愛の成熟がその時点で止まってしまうことがあり得る。
例えば、小学校入学までは理想的な両親が鏡映自己対象/理想化自己対象を引き受けてきた子どもが、小学校入学と同時に父親を喪い、しかも母親が突然に「小学生だからちゃんとしなさい!」と厳しい態度で養育をし始めたらどうなるか?その子が両親を自己対象として自己愛を充たしていく度合いは急激にしぼむことになるわけで、「ちょっとずつの失望」とは到底言えないだろう。その子どもの自己愛の成熟は、小学一年生の時点で多かれ少なかれの成熟遅延(または停止)を呈してしまう可能性が出てくる。
3.自己対象のバリエーション問題(いつまでも両親だけを自己対象にしてられない問題)
両親(養育者)ばかりが自己対象、という状況が持続した場合に生じる問題についても書いてみる。
鏡映自己対象や理想化自己対象は、幼い頃は両親が殆ど受け持ってくれるが、成長するにつれてそうもいかなくなってくる。両親が抱える色々な欠点や矛盾がみえてくるし、家庭外で出会う人達をも段々に自己対象として体験出来なければ、家庭内でしか自己愛を充たせない人になってしまうのは避けられない。そして双子自己対象に関しては、自分と似た年頃の仲間を(家庭の外の世界で)みつけない限り、充たしようが無い。
しかし例えば、両親が幼児の要求水準に応えるのがあまりにも上手過ぎて、“適度な失望”の進行が割とゆっくりめの人が、ある日突然、厳しい寄宿舎生活に放り込まれたらどうなるだろうか?その子の両親は、以後も自己対象として機能してくれるかもしれないが、いつまでも両親だけにべったりでは、(両親ほどハイレベルな自己対象としては機能してくれない)他の子と仲良くなるのが遅れてしまうかもしれないし、たぶん寄宿舎生活は地獄だろう。
または逆に、学校生活で友達を作ることを禁じ、先生すら軽蔑するように子どもに言い渡すようなトンデモ両親のもとに育った子ども、家庭の外に自己対象を求めることが非常に困難になってしまうだろう。
自己愛が成長していくにあたって、両親の自己対象機能が大切なのは言うまでもない。さりとて、子どもはいつまでも両親だけを自己愛の供給源として生きていくわけにはいかないし、それでは自己愛の成熟にも限界がある。いつかは両親の抱える矛盾や弱さにも直面するし、クラスメートや学校の先生なども自己対象として体験できるようになっていかなければ、友達のできない子になってしまうのがオチである。そんな青少年になってしまったら、周囲の仲間と一緒に技能を身につけるのが非常に大変になるだろう――思春期の頃、親以外の誰かにあこがれたり、切磋琢磨できる友人やライバルを見つけられないと、技能の習得と心理的な満足を両立させることができなくなるので、自分一人だけで(おそらく自分以外を見下しがちなために孤立して)全てのことを身につけなければならなくなってしまう。なにより、寂しい青春が待っている。
一般的な『自己心理学』のテキストブックでは、自己対象としての両親がちゃんと体験できているのかどうかが最も重要視されているし、それは至極妥当だとは思うけれど、小学校入学以降、とりわけ思春期以降は、両親以外のクラスメートや他の年長者を自己対象として体験できるかどうかが非常に重要になってくるし、特に双子自己対象に関しては、学校で友達ができなければ充たせないだろう。何らかの理由で、“両親だけが安心できる自己対象、他はダメ”という状況が続いた人は、心理的に満ち足りること・同世代の友人と交友関係を築くこと・技能を習得すること、といった複数の課題を両立させるうえで著しく不利だと思う。もちろん、学生時代以降の自己愛成熟という点でも著しく不利だ。
以上のような悪条件が揃えば揃うほど、その人は自己愛の成熟は遅れてしまうだろう。1.2.は、より幼少期の、より深刻な自己愛の成熟の遷延に、3.はもうちょっと年長の、そこまで深刻ではない自己愛の成熟の遷延に関する問題だが、これらが重なれば重なるほど、その人の自己愛は成熟せず、未熟な段階に留まってしまうものと思われる。そのような未熟な自己愛に留まってしまった人は、それでも大人の生活を維持しメンタルヘルス上の破綻を避けるべく、垂直分裂/水平分裂といった、防衛機制を利かせた処世術に依存することになる。そうなれば、人間関係や社会適応の可能性がかなり狭くなってしまうだろう。
さきに、子ども時代に自己愛が成熟していくための条件まとめとして
1.乳幼児期の、両親の弱点や欠点にまだ気付きにくい年頃から、
2.子どもにとっての自己対象としての役割を引き受けている親のもとで
3.親を自己対象として体験しつつ、“適度な欲求不満や失望”にも遭遇しながら
4.それでいて欲求不満や失望の程度・頻度が極端ではない
と書いた。
では逆に、自己愛の成熟が阻害され、幼児そのままの自己愛の大人はどういう条件下で生じてくるのか?上記条件の逆をいくような生育環境下では、自己愛の成熟は阻害されやすくなり、自己対象への要求水準が幼児レベルで止まってしまいやすいと考えられる。この文章では、「未熟なままの自己愛に陥りやすい生育環境や状況」について触れてみる。
【自己愛の成熟が阻害されそうな条件】
以下に、“自己愛成熟を阻害するファクター”を挙げてみる。ただし、実際に自己愛の成熟が停滞した人で、以下のファクターの一つだけが該当している人はたぶん稀で、複数、または全部のファクターに引っかかっていた人こそが、まさに自己愛の成熟が進まないまま大人になっていく、という風に見受けられる。
1.子どもの自己対象として両親(養育者)がまともに機能していなかった
自己愛が成熟していく為には、両親(養育者)を自己対象として体験する必要があり、それは年齢相応のものでなければならない。例えば三歳児や四歳児に、中学生や高校生が学校で出会うような(幼児からすれば要求水準を到底クリアしているとは体験できない)自己対象で我慢しろといったって、無理としかいいようがない。年齢相応の要求水準をクリアするような自己対象として、養育者が子どもの自己愛を充たす役割を引き受けてくれていなければならない。
しかし世の中には、鏡映自己対象/理想化自己対象としての役割をあまり(時には全く)引き受けてくれない養育者もいるわけで、そのような養育者のもとで育つと、自己愛の成熟はそこで止まってしまう。例えば幼児の頃から親のマリオネットとしてひたすら使役させられてきた人や、全く共感的ではない養育者に曝され続けてきた人などは、自己対象を通して自己愛をロクに充たせずに育っている可能性が高く、自己愛の成長が停滞している可能性が高い。
2.自己対象としての親に対する失望の速度が急激過ぎた
冒頭で書いたように、自己愛の成熟には、自己対象へのちょっとずつの失望や“最適な失敗”があっても構わない……というより必要である。だが、ある年齢の時期に、ものすごく急激な形で自己愛が充たされなくなってしまうような事態を迎えると、彼/彼女の自己愛の成熟がその時点で止まってしまうことがあり得る。
例えば、小学校入学までは理想的な両親が鏡映自己対象/理想化自己対象を引き受けてきた子どもが、小学校入学と同時に父親を喪い、しかも母親が突然に「小学生だからちゃんとしなさい!」と厳しい態度で養育をし始めたらどうなるか?その子が両親を自己対象として自己愛を充たしていく度合いは急激にしぼむことになるわけで、「ちょっとずつの失望」とは到底言えないだろう。その子どもの自己愛の成熟は、小学一年生の時点で多かれ少なかれの成熟遅延(または停止)を呈してしまう可能性が出てくる。
3.自己対象のバリエーション問題(いつまでも両親だけを自己対象にしてられない問題)
両親(養育者)ばかりが自己対象、という状況が持続した場合に生じる問題についても書いてみる。
鏡映自己対象や理想化自己対象は、幼い頃は両親が殆ど受け持ってくれるが、成長するにつれてそうもいかなくなってくる。両親が抱える色々な欠点や矛盾がみえてくるし、家庭外で出会う人達をも段々に自己対象として体験出来なければ、家庭内でしか自己愛を充たせない人になってしまうのは避けられない。そして双子自己対象に関しては、自分と似た年頃の仲間を(家庭の外の世界で)みつけない限り、充たしようが無い。
しかし例えば、両親が幼児の要求水準に応えるのがあまりにも上手過ぎて、“適度な失望”の進行が割とゆっくりめの人が、ある日突然、厳しい寄宿舎生活に放り込まれたらどうなるだろうか?その子の両親は、以後も自己対象として機能してくれるかもしれないが、いつまでも両親だけにべったりでは、(両親ほどハイレベルな自己対象としては機能してくれない)他の子と仲良くなるのが遅れてしまうかもしれないし、たぶん寄宿舎生活は地獄だろう。
または逆に、学校生活で友達を作ることを禁じ、先生すら軽蔑するように子どもに言い渡すようなトンデモ両親のもとに育った子ども、家庭の外に自己対象を求めることが非常に困難になってしまうだろう。
自己愛が成長していくにあたって、両親の自己対象機能が大切なのは言うまでもない。さりとて、子どもはいつまでも両親だけを自己愛の供給源として生きていくわけにはいかないし、それでは自己愛の成熟にも限界がある。いつかは両親の抱える矛盾や弱さにも直面するし、クラスメートや学校の先生なども自己対象として体験できるようになっていかなければ、友達のできない子になってしまうのがオチである。そんな青少年になってしまったら、周囲の仲間と一緒に技能を身につけるのが非常に大変になるだろう――思春期の頃、親以外の誰かにあこがれたり、切磋琢磨できる友人やライバルを見つけられないと、技能の習得と心理的な満足を両立させることができなくなるので、自分一人だけで(おそらく自分以外を見下しがちなために孤立して)全てのことを身につけなければならなくなってしまう。なにより、寂しい青春が待っている。
一般的な『自己心理学』のテキストブックでは、自己対象としての両親がちゃんと体験できているのかどうかが最も重要視されているし、それは至極妥当だとは思うけれど、小学校入学以降、とりわけ思春期以降は、両親以外のクラスメートや他の年長者を自己対象として体験できるかどうかが非常に重要になってくるし、特に双子自己対象に関しては、学校で友達ができなければ充たせないだろう。何らかの理由で、“両親だけが安心できる自己対象、他はダメ”という状況が続いた人は、心理的に満ち足りること・同世代の友人と交友関係を築くこと・技能を習得すること、といった複数の課題を両立させるうえで著しく不利だと思う。もちろん、学生時代以降の自己愛成熟という点でも著しく不利だ。
以上のような悪条件が揃えば揃うほど、その人は自己愛の成熟は遅れてしまうだろう。1.2.は、より幼少期の、より深刻な自己愛の成熟の遷延に、3.はもうちょっと年長の、そこまで深刻ではない自己愛の成熟の遷延に関する問題だが、これらが重なれば重なるほど、その人の自己愛は成熟せず、未熟な段階に留まってしまうものと思われる。そのような未熟な自己愛に留まってしまった人は、それでも大人の生活を維持しメンタルヘルス上の破綻を避けるべく、垂直分裂/水平分裂といった、防衛機制を利かせた処世術に依存することになる。そうなれば、人間関係や社会適応の可能性がかなり狭くなってしまうだろう。