8.どのようにして自己愛は成熟していくのか
こちらの続きです。
今回の8.と次回の9.で、自己愛が年齢相応に成熟していくプロセスと、未熟なままに留まってしまう場合の要因について簡単に説明をしていこうと思う。
【幼児のうちは、自己対象への要求水準が高くても充たされやすい】
年齢相応に自己愛の成熟度が高くなり、マイルドな自己愛の充たし合い方や、ちょっとぐらい欠点のある師匠や先輩でもなんとなくいいなと思えるようになれるような人も、生まれながらに自己愛が成熟していたわけではない。彼/彼女とて、赤ちゃんや幼児の頃には年齢相応に未熟な自己愛だっただろうし、自己対象としての両親(や周囲の人達)に対する要求水準もハイレベル高かった筈である。ハイハイする、離乳食を食べる、ブランコに乗ってみる、といった一挙一動を母親に褒めて貰ったり、大きくて力強く見える父親に理想を仮託できたりできるのは、幼い頃だけの特権だ 。
この時期の子どもにとって、母親や父親は、自己対象としてかなり高い要求水準をクリアしている存在だ 。例えば幼児に対する鏡映自己対象としての母親は、子どもの一挙一動に対して概ね肯定的で包容力のあるリアクションを返してくれるものだ。上手にトイレに行けたとか、ハイハイが出来たといった水準までもが褒めてもらえるし、それどころか、うんこをしたらしたで、ミルクを飲んだら飲んだで、満足げな笑みを返してくれる。うんこをしたりメシを食ったりするだけで肯定して貰えるのは、どう考えても乳幼児期だけの特権であり、しかしそれゆえに、恐ろしくハイレベルな要求水準の鏡映自己対象体験として体験されやすい。
また、理想化自己対象にしても、乳幼児が見上げる大きな父親(や母親)の姿は、思春期以降の男女が両親をまなざす場合のソレに比べて遙かに素晴らしく、万能で、理想を具現化したようなイメージとして捉えられやすい。自分より遙かに大きくて、どうやって実行できるのか分からないような事を次々にこなして、教え授けてくれる存在は、理想化自己対象としてもハイレベル過ぎる。
もちろんこれは、実際には錯覚に近いような体験だ。実際の母親や父親は欠点や弱点をそれなりに含んでいる筈で、乳幼児が自己対象として体験しているような、“何でもほめてくれるママ”でも“なんでもできるパパ”でもない。ところが、乳幼児の認知機能はまだ不十分で、経験も行動半径も小さいので、そうした母親や父親の欠点や弱点は目に見えにくいのだ。影で不倫をしている母親の姿とか、父親の弱気な姿といったものが実際に子どもの視界に飛び込んでくるのは、子どもがもっと歳をとって、行動範囲/経験/視野を広げてからの場合が多い。
このため、子どもの視野が狭いうちは、[実際の母親や父親がどうであるか]と、[子どもに自己対象として体験されている母親や父親のイメージ]との間のギャップが発生しやすく、子どもは、両親をハイレベルな要求水準にみあった自己対象として体験しやすい。実は、子どもの自己愛の成熟にとって、子ども自身の認知機能や経験の弱さというのはむしろ味方のようなもので、仮に、生まれた時から大人並みの認知機能の子どもがいたら、その子どもはたちどころに母親や父親に含まれている欠点や弱点に気付いてしまい、年齢相応の、ハイレベルな自己対象として体験できないだろう。このあたりは、認知機能や社会経験の発達と、心理的な成熟とが、バランス良く噛み合わさってはじめて上手くいくもののようにみえる。
【失望の速度が緩やかなら、ちょっとずつ成熟可能】
とはいえ、子どもが成長していくにしたがって、いつかは母親や父親の欠点や弱点にも気づかざるを得ない。そうでなくても、子どもの期待に応えきれないこともあるだろうし、子どもの要求に気づかない瞬間だってあるだろう。子どもは日々成長していき、成長するごとに親の制御の外側へとはみ出していくものだから、2歳、3歳、4歳と成長していく子どもの要求を充たし続けるよう両親が頑張り続けても無理が生じるのは目に見えている。
しかし、両親(やそのほか周囲の大人達)が要求水準をクリアした自己対象として完璧に機能してくれないとしても、その要求水準との現実のギャップがひどすぎず、そのギャップの頻度もそれほどでもないなら 、子どもの要求水準はちょっとずつ穏当なレベルに下がる、のだという。※1
※1『自己心理学』では、これを変容性内在化transmuting internalizationと呼ぶ。結構大切な概念なので、この用語についてはまた説明すると思う。
生前のコフートは「最適な両親とは“最適に失敗する”両親のことである」という言葉を残している。実際、小学生になった子どもに対していつまでも三歳児相応の自己対象ニーズを提供し続けるなんて不可能だし、子どもの成長に合わせて両親の対応も変化せざるを得ないだろう。それでなくても、子どもが成長すれば親の弱点や欠点も目に付いてくるわけで、自己対象としての両親が、子どもの側からみて多少の欲求不満や失望を含んでくるのは必然に近い。だから、“コフートがいう最適に失敗”は、最高に理想的な両親に育てられていたとしても不可避に発生するプロセスで、この不可避のプロセスが、自己愛の成熟がむしろ促進させる、という風に私は理解している。※2
※2念のため断っておくが、「わざと両親が子どもを失望させれば自己愛が成熟する」という意味ではないのでご注意を。
このあたり、人間の自己愛の成長は、骨や筋肉といった人体組織の成長にどこか似ている。「骨に全く負荷をかけない状況よりも、許容範囲の、適度な負荷がかかっている状況のほうが骨が成長する」とか、そのあたりの話である。そういえば、まだ弱いうちに一気に負荷をかけすぎるようなトレーニングでだめになってしまうという点でも骨や筋肉と自己愛は似ているかもしれない。
【まとめ】
最後に、ここまでを大雑把に箇条書きにしてみる。
1.乳幼児期の、両親の弱点や欠点にまだ気付きにくい年頃から、
2.子どもにとっての自己対象としての役割を引き受けている親のもとで
3.親を自己対象として体験しつつ、“適度な欲求不満や失望”にも遭遇しながら
4.それでいて欲求不満や失望の程度・頻度が極端ではない
これらの条件を満たしていれば、自己愛の成熟は進行していくか、少なくとも成熟しはやすくなる。逆に、これらの条件に恵まれなかった場合には、自己愛の成熟は進みにくくなってしまう、ということにもなるわけで、そのあたりは、次回「未熟な自己愛への道」で紹介していこうと思う。
→続き(9.未熟な自己愛への道)を読む
今回の8.と次回の9.で、自己愛が年齢相応に成熟していくプロセスと、未熟なままに留まってしまう場合の要因について簡単に説明をしていこうと思う。
【幼児のうちは、自己対象への要求水準が高くても充たされやすい】
年齢相応に自己愛の成熟度が高くなり、マイルドな自己愛の充たし合い方や、ちょっとぐらい欠点のある師匠や先輩でもなんとなくいいなと思えるようになれるような人も、生まれながらに自己愛が成熟していたわけではない。彼/彼女とて、赤ちゃんや幼児の頃には年齢相応に未熟な自己愛だっただろうし、自己対象としての両親(や周囲の人達)に対する要求水準もハイレベル高かった筈である。ハイハイする、離乳食を食べる、ブランコに乗ってみる、といった一挙一動を母親に褒めて貰ったり、大きくて力強く見える父親に理想を仮託できたりできるのは、幼い頃だけの特権だ 。
この時期の子どもにとって、母親や父親は、自己対象としてかなり高い要求水準をクリアしている存在だ 。例えば幼児に対する鏡映自己対象としての母親は、子どもの一挙一動に対して概ね肯定的で包容力のあるリアクションを返してくれるものだ。上手にトイレに行けたとか、ハイハイが出来たといった水準までもが褒めてもらえるし、それどころか、うんこをしたらしたで、ミルクを飲んだら飲んだで、満足げな笑みを返してくれる。うんこをしたりメシを食ったりするだけで肯定して貰えるのは、どう考えても乳幼児期だけの特権であり、しかしそれゆえに、恐ろしくハイレベルな要求水準の鏡映自己対象体験として体験されやすい。
また、理想化自己対象にしても、乳幼児が見上げる大きな父親(や母親)の姿は、思春期以降の男女が両親をまなざす場合のソレに比べて遙かに素晴らしく、万能で、理想を具現化したようなイメージとして捉えられやすい。自分より遙かに大きくて、どうやって実行できるのか分からないような事を次々にこなして、教え授けてくれる存在は、理想化自己対象としてもハイレベル過ぎる。
もちろんこれは、実際には錯覚に近いような体験だ。実際の母親や父親は欠点や弱点をそれなりに含んでいる筈で、乳幼児が自己対象として体験しているような、“何でもほめてくれるママ”でも“なんでもできるパパ”でもない。ところが、乳幼児の認知機能はまだ不十分で、経験も行動半径も小さいので、そうした母親や父親の欠点や弱点は目に見えにくいのだ。影で不倫をしている母親の姿とか、父親の弱気な姿といったものが実際に子どもの視界に飛び込んでくるのは、子どもがもっと歳をとって、行動範囲/経験/視野を広げてからの場合が多い。
このため、子どもの視野が狭いうちは、[実際の母親や父親がどうであるか]と、[子どもに自己対象として体験されている母親や父親のイメージ]との間のギャップが発生しやすく、子どもは、両親をハイレベルな要求水準にみあった自己対象として体験しやすい。実は、子どもの自己愛の成熟にとって、子ども自身の認知機能や経験の弱さというのはむしろ味方のようなもので、仮に、生まれた時から大人並みの認知機能の子どもがいたら、その子どもはたちどころに母親や父親に含まれている欠点や弱点に気付いてしまい、年齢相応の、ハイレベルな自己対象として体験できないだろう。このあたりは、認知機能や社会経験の発達と、心理的な成熟とが、バランス良く噛み合わさってはじめて上手くいくもののようにみえる。
【失望の速度が緩やかなら、ちょっとずつ成熟可能】
とはいえ、子どもが成長していくにしたがって、いつかは母親や父親の欠点や弱点にも気づかざるを得ない。そうでなくても、子どもの期待に応えきれないこともあるだろうし、子どもの要求に気づかない瞬間だってあるだろう。子どもは日々成長していき、成長するごとに親の制御の外側へとはみ出していくものだから、2歳、3歳、4歳と成長していく子どもの要求を充たし続けるよう両親が頑張り続けても無理が生じるのは目に見えている。
しかし、両親(やそのほか周囲の大人達)が要求水準をクリアした自己対象として完璧に機能してくれないとしても、その要求水準との現実のギャップがひどすぎず、そのギャップの頻度もそれほどでもないなら 、子どもの要求水準はちょっとずつ穏当なレベルに下がる、のだという。※1
※1『自己心理学』では、これを変容性内在化transmuting internalizationと呼ぶ。結構大切な概念なので、この用語についてはまた説明すると思う。
生前のコフートは「最適な両親とは“最適に失敗する”両親のことである」という言葉を残している。実際、小学生になった子どもに対していつまでも三歳児相応の自己対象ニーズを提供し続けるなんて不可能だし、子どもの成長に合わせて両親の対応も変化せざるを得ないだろう。それでなくても、子どもが成長すれば親の弱点や欠点も目に付いてくるわけで、自己対象としての両親が、子どもの側からみて多少の欲求不満や失望を含んでくるのは必然に近い。だから、“コフートがいう最適に失敗”は、最高に理想的な両親に育てられていたとしても不可避に発生するプロセスで、この不可避のプロセスが、自己愛の成熟がむしろ促進させる、という風に私は理解している。※2
※2念のため断っておくが、「わざと両親が子どもを失望させれば自己愛が成熟する」という意味ではないのでご注意を。
このあたり、人間の自己愛の成長は、骨や筋肉といった人体組織の成長にどこか似ている。「骨に全く負荷をかけない状況よりも、許容範囲の、適度な負荷がかかっている状況のほうが骨が成長する」とか、そのあたりの話である。そういえば、まだ弱いうちに一気に負荷をかけすぎるようなトレーニングでだめになってしまうという点でも骨や筋肉と自己愛は似ているかもしれない。
【まとめ】
最後に、ここまでを大雑把に箇条書きにしてみる。
1.乳幼児期の、両親の弱点や欠点にまだ気付きにくい年頃から、
2.子どもにとっての自己対象としての役割を引き受けている親のもとで
3.親を自己対象として体験しつつ、“適度な欲求不満や失望”にも遭遇しながら
4.それでいて欲求不満や失望の程度・頻度が極端ではない
これらの条件を満たしていれば、自己愛の成熟は進行していくか、少なくとも成熟しはやすくなる。逆に、これらの条件に恵まれなかった場合には、自己愛の成熟は進みにくくなってしまう、ということにもなるわけで、そのあたりは、次回「未熟な自己愛への道」で紹介していこうと思う。
→続き(9.未熟な自己愛への道)を読む