・はじめに

 インターネットは、どこまで人と人とを“繫いでいる”のでしょうか。
 
 二〇一二年十二月、インターネットで知り合った友人の結婚式に出席してきました。会場には彼のネット仲間が何人あも参列して、新郎新婦の門出を祝福したものです。私が結婚したときもネットで知り合った友人たちが来てくれましたし、高校時代の同級生にいたっては、オフ会で知り合った女性と結婚し、今では二児の父としてうまくやっています。こうした周囲の事例を思い出す限り、確かにインターネットは人を“繫いでいる”ように思えます。
 
 その一方で、ネットコミュニケーションに夢中になっているけれども長続きする交際を持たない人、どれだけ繫がっても繫がりきらないような感覚を抱えている人も珍しくありません。ツイッターで大量のフォロワーに囲まれているにも関わらず、「空虚だ」「寂しい」と孤独を嘆いているような人物を見たことはないでしょうか。そういう人物を見ていると、ネットコミュニケーションの頻度が高いからといって十分繫がっているとは限らない、ということを思い知らされます。
 
 同じく、ネットが普及してからの十代~二十代は、SNSやメールを使ったコミュニケーションをかなりの頻度で繰り返していますが、あれでどこまで“繫がり”が促進されているのでしょうか。それとも“独りぼっち”に対する不安を紛らわせるための手段としてネットを用いているのでしょうか。もし、一日に何遍もメールを交わさなければ“繫がっていない”としたら、それで本当に人と人とが繫がっていると言えるのか――そういう疑問を禁じ得ないのです。
 
 このように、ひとことでネットコミュニケーションと言っても、“繫がり”の内実はさまざまです。承認欲求や自己愛を充たすための刹那的なやりとりに終始している人と、生涯の人間関係を模索している人では、十年後、二十年後の人間関係は天と地ほどにも違うでしょう。また、ネットコミュニケーションを介して技能や知識にますます磨きをかけていく人もいれば、その場限りの満足を追い求めるうちに時間や金銭を失い、視野を偏らせ、後には何も残らないような人もいます。インターネットは素晴らしい文明の利器ですが、誰もがうまく使いこなしているわけではありません。
 
 誰もが“繫がっている”ように見えて、どこまで“繫がっている”のか分からない――この本は、そんなインターネットの心理学的側面についての本です。
 
 これまでにもインターネットについては多くのことが語られてきましたが、その多くは、ネットの技術的側面や、ビジネス・政治との関連をテーマとして取り扱ったものでした。インターネットと心理について書かれた数少ない書籍も、SNSはおろかブログすら普及していなかった時代に国外で書かれた、インターネットがアーリーアダプターの占有物だった時代のものが中心です。二〇一三年の、これまでITとは無縁であったブルーカラー層や小中学生までもがインターネットに当然のようにアクセスする日本の現状には、相応にアップトゥデートな「インターネットと心理」についての論考があってもいいんじゃないか――そう思って、私はこの本を書いてみることにしました。
 
 私は職業的には精神科医ですが、インターネットジャンキーと言って差し支えない、どんなときもネット上の人間観察がやめられないような、そういう人間です。インターネットを単なる情報ネットワーク以上の何かとして体感し、ネットコミュニケーションを観察し続けてきた一ユーザーとして、インターネットを介した人の繫がりについて考察していきたいと思います。
 
 以下に、各章について簡単な紹介をしておきます。
 
 まず第一章では、インターネット上で散見される、あまりうまいとは言えないネットユースの現状と、その心理的背景について紹介していきます。インターネットが普及しはじめて十数年が経ちますが、技術の進化に人間の側がついていけないらしく、ネット上では心理的充足を求めすぎて痛手を負う人や、誤情報に飛びついてしまう人たちが後を絶ちません。
 情報ツールとして以上に情動ツールとして用いられがちなインターネットの現状について振り返ってみます。
 
 続く第二章では、コフートの自己心理学における「自己愛」という概念を紹介したうえで、その自己愛をインターネット上で充たす際の特徴について解説します。昔から人間は、誰かとの繫がりや一体感によって自己愛を充たし、それをモチベーションや安心感の糧にして生きてきました。そうした繫がりや一体感がオンラインで成立するようになったことで、新たにどういうことが問題になり得るのか、チェックしてみます。
 
 第三章では、ネットコミュニケーションについてまわる情報の抽象化問題について紹介します。SNSの短文やアイコンに象徴されるように、私たちはお互いに情報量のスカスカなアカウントを介して一体感や繫がりを体感していますが、それは本当にコミュニケーションと呼べるものでしょうか? それとも、お互いのアカウントを“キャラ萌え”的に消費しているだけなのでしょうか? ロボットアカウントが繫がりの対象とされている現象にも触れながらディスカッションします。
 
 以上を踏まえ、第四章からは、ネットを介した自己愛充当の望ましい姿について考察していきます。多忙なスケジュールに分断されがちな現代人にとって、ネットは有用な繫がりの手段には違いなく、リアル現実の人間関係を補強するツールとしても新しい繫がりを求めるツールとしても無視できません。心理学的ツールとしてのインターネットを、リスクを回避しながらどう使っていくのか、ネットユースごとに場合分けしながら考えていきます。
 
 最後の第五章では、ネット上で自己愛を充たしながら人間は成熟可能なのか・もし成熟可能だとしたらどういう道筋があり得るのか、コフートの自己心理学を応用して考えてみます。ネットコミュニケーションは、使い方次第では人の心を退行させてしまいますが、使い方次第では成熟に寄与する可能性も秘めているのではないか――そのあたりについて、年少者のネットユースを念頭に置きながらまとめます。

 ・インターネットと心理について考えてみる理由

 インターネットが普及しはじめて十数年が経ちました。人間の心理、とりわけネットを始める前に大人になった人たちの心理は、それほど大きく変化していないようにみえます。私は一九七五年生まれですが、私と同世代~年長世代の過半数は、インターネットが登場する前と心理的にほとんど変わりません。もう少し若い世代でも、インターネットに濃厚接触していない人たちと話をするぶんには、心理的に特別な隔たりがあるとは感じません。
 
 しかし、ネットのアーリーアダプターやネット依存を呈している人たち、生まれながらにネットに慣れ親しんでいる人たちにおいては、この限りではありません。情報源としてGoogleやWikipediaを当然のように利用し、心理的充足感の多くを(SNS、電子メール、LINEなども含めた)オンライン経由に頼るようになった人たちは、そうでない人たちよりずっと大きな影響をインターネットから受けずにいられません。ガラケーやスマートフォンが普及した現代のインターネットは、インターネット黎明期よりもずっと高速で、ずっとリアルタイムで、なにより“肌身離さずインターネットにアクセス”できます。常時接続は、もう研究者やギークだけの特権ではないのです。
 
 GoogleやSNSを常用するネットライフは、人間にどういう影響を与えるのか?――著述家のニコラス・G・カーは、『ネット・バカ』(青土社・二〇一〇年刊)のなかで、「インターネットに慣れた人は、短時間に大量の情報をスキャンできるようになるかわりに、ひとつの物事を熟考するには不向きになっていくだろう」と警告しました。実際、SNSやRSSのポップアップがひっきりなしに知らせを告げる生活に慣らされていくうちに、分厚い本をじっくり読んでいられなくなった人もいらっしゃるのではないでしょうか。私自身、本書の原稿を書きはじめた頃、ブログやSNSへのリアクションを告げるポップアップに何度も注意を逸らされてしまったので、とうとうインターネットを切断して作業しなければなりませんでした。
 
 『ネット・バカ』は、ネットと注意力・ネットと学習について書かれた本なので、インターネットが人間の心理に及ぼす影響についてはほとんど触れられていません。ですが“誰でも肌身離さずネットにアクセス”できるようになり、ネットがコミュニケーションの大きなウエイトを占めるようになった以上、注意力や学習面だけでなく、心理面でもネットの影響を受けていると想定すべきでしょう。こうした影響は、若ければ若いほど・ネットを介した心理的充足に親しんでいればいるほど大きいでしょうし、これから社会に出てくる世代においては、今まで以上に顕著になってくるはずです。そしてネット依存の人たちが象徴しているように、オンラインの心理的充足に特化しすぎると、オフラインの心理的充足の手助けにならないどころか時には妨げになるかもしれません。
 
 もちろん私は、インターネットを介して心理的に満足してはいけない、と言いたいわけではありません。むしろこれからの時代、ネットを介した心理的充足や人間関係は不可避になっていくでしょう。
 
 ただ、インターネットを介した心理的充足と、今までどおりの面と向かった人間関係を介した心理的充足との、微妙な違いを意識しながら使っていかないと面倒なことになるかもしれませんよ、という但し書きはあったほうが良いとも思うのです。
 
 これから先、インターネットは私たちの暮らしに今まで以上に深く食い込んでくるでしょう。ネットまみれになった近未来、人間がどうネットに慣らされ、どういう心理的傾向を帯びていくのでしょう? このテーマについて、もっと多くの人が真面目に考えていてもよさそうなものですが、日本の心理学者や精神科医は、その手の未来予想図について言及を避けているようにもみえます※1。だからこそネット原住民にしてヘビーユーザーでもあり、ついでに精神科医もやっている私が、現状から予測される未来予想図を描いてみようか、と思ったわけです。
 
 ※1もちろん、そうした“きちんとした”心理学者や精神科医の先生方は、実証研究次元ではネット依存を中心にさまざまな統計学的レポートを生み出しています。そうしたきちんとした研究のお陰があってはじめて、こういう与太話を書く余地が生まれるのだと私は感謝しています。ただ、そうした実証研究の類は、その性質上、どうしても各論的・断片的になりがちで、依存や疾病や障害といった視点に偏ってしまいやすく、読み物としてまとまったビジョンを形成するにも向いていません。また、ネットサービスやネットカルチャーの流行はたぶんに水物というか、実証研究を待っている間に次のフェーズに移行してしまいがちですので、実証研究のレポートを待っているうちにアップトゥデートな論考の機会を逃してしまう、ということが往々にして起こりがちです。
 
 第一章では、まず、そうしたインターネットを介した心理的充足がもたらすリスクについて、象徴的なケースを幾つか紹介します。

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