・5.美少女キャラクターは『萌える』ための骨組みとして機能している

   ひとつ前のテキストで私は、
オタクは「好みの特徴を持ったキャラクターや作品を芯にして、自分の空想や想像や願望を膨らませて楽しんでいる」
  と私は書いた。

 では、美少女キャラクターなりコスプレメイドなりにオタクが「萌えている」時、オタク達は美少女キャラクターなりコスプレ女性なりのどこに着眼して、どんな風に楽しんでいるのか?「萌える」とは、とどのつまりどういうメカニズムなのか?

 この疑問は、オタク達自身によって繰り返し自問されてきたテーマであり、インターネットや書籍上でも議論され続けてきた。そのなかでも最も支持されているモデルのひとつに、『動物化するポストモダン』で提唱した「属性消費※1」という考え方がある。

 ※1正確には、「属性データベース消費」。

 『動物化するポストモダン』のなかで東浩紀さんは「オタク達は、キャラクターに含まれている属性群・設定群のデータベースから自分好みのものを選好し、その選好した属性や設定の束をもとに、自分好みのシミュラークルを創り出し、そのシミュラークルをこそ消費している」というオタク独特の消費様式を提示した。言い換えると「オタク達は、作中で描かれたままの美少女キャラクターをそれそのままに楽しんでいるわけではない。目につく属性や設定のなかから自分好みの情報だけをイイトコドリして、それを骨組みとして自分好みにカスタマイズした脳内補完や二次創作的イメージを楽しんでいる」となるだろうか。

 この説明でもまだ分かりにくいと思うので、オタク向けの美少女ゲームの古典『Kanon』のキャラクターを例として紹介してみよう。

kanonのヒロイン一覧
属性一覧
 図と表。Kanonのヒロイン達の顔と、それぞれに与えられた主な属性一覧を示した。デザインが大同小異で、なかなか判別のつきにくいキャラクター達である(図)。しかし、キャラクターに与えられた属性さえ異なっていれば(表)、それをもとに個々のオタクが頭のなかで膨らませるイメージの方向性は全く違ったものとなるし、その膨んだイメージが異なる方向性を持っている限りにおいては、別々のキャラクターとしてしっかりアイデンティファイされるのである。こうした属性を駆使したキャラ立ちの手法は、表現の制約が多かった2000年頃までの美少女ゲームジャンルで洗練され、重宝されてもいた。
 
 『Kanon』は5人のメインヒロインと数人のサブヒロインが登場し、彼女達には異なった設定(性向・口癖・髪型など)が与えられている。ただしキャラクターの絵柄自体は、従来の少女漫画などに比べて単調で、変化に乏しく、情報量の少ない線で構成されている。キャラクター一人あたりに割り当てられた絵のバリエーションも豊富とは言い難い。彼女達の台詞や口癖は単純化されており、従来の小説などの登場人物に比べて描写が一面的過ぎる印象を免れない。従来の娯楽作品の見方でみる限りは、これら“情報量の少なさ”と“描写の平板さ”は、登場人物として致命的な欠陥と看做されるかもしれない。

 だが、描写の貧困なこれらのキャラクター達は、「萌え」の対象としてはむしろ好都合ですらある。先に述べたように、キャラクターに「萌える」際のオタク達は、描写されたそのままのキャラクターに出来るだけ精緻に接近しようとしているわけでも、対峙したがっているわけでもないからだ。オタクが望んでいるのは、自分の願望や想像力を勃起させるような特徴(萌え属性)を持ったキャラクターを見つけてきて、イイトコドリした属性をベースにしたイメージを頭のなかで膨らませ、その脳内補完や二次創作した自分好みのイメージと戯れ、陶酔することだった。本当に肝心なのは、キャラそのものではなく、キャラを使った脳内補完・二次創作のほう、というわけだ。

 精緻に描かれた従来的な登場人物の場合、どれほど精緻に美しく描かれている場合さえも、好みに合致しない部分や摩擦・齟齬といったものを含まないわけにはいかない。むしろきちんと描かれているほど、摩擦・齟齬を含みやすく、脳内補完や二次創作の余地を与えてはくれないだろう。対して、『Kanon』のようにスカスカで設定ばかりが先行しているキャラクターであれば、好みに合致しない部分や摩擦・齟齬を最小化しつつ、自分の想像力で脳内補完や二次創作を自由にエディットできる。

 だから、「萌え」に供されるキャラクターとは、ぬいぐるみや人形の類というより、骨組みだけのプラモデルや、綿菓子の割り箸のようなものに近い。“オタク個々人の願望と想像力”という名の綿飴をまとわりつかせ、オタク好みの二次創作的イメージを膨らませるための芯や骨組みとしての役割を果たすことはあれど、それそのままの形で消費されることは殆ど無い。

 このため、「萌え」キャラクターの良し悪しをキャラクターの図像や描写それそのもので評価するのは不当であり、そんなことをしたところで“綿菓子をまとめるための細い割り箸一本見つかるだけ”で終わってしまうのが関の山である。オタク達にとって肝心なのは“割り箸にまとわりつかせた綿飴”のほうである以上、“綿飴のまとめやすさ”、つまり願望と想像力を膨らませて脳内補完や二次創作的なイメージをまとめやすいか否かが、「萌えキャラ」としての優劣の基準としては妥当である。

 実際、人間の多面性が豊かに描かれている作品中の美少女であろうとも、オタクの願望や想像力を膨らませにくいキャラクターは「萌えキャラ」として人気を集めることが無い。具体例を挙げると、アニメ『時をかける少女』のヒロイン・真琴は、あまりに丁寧に描写され過ぎていて、かえってオタク個々人が願望や想像力を膨らませて脳内補完や二次創作がやりにくかった。言うまでも無く、この真琴の仕上がりは、従来の登場人物の評価軸からみれば、きわめてまっとうなものである。しかし、いかに精緻に描写された美少女であろうとも、オタク達がめいめいの願望や想像力をアタッチさせにくく、各人好みの脳内補完や二次創作的イメージを膨らませにくい限りは、“優れた萌えキャラクター”とはならないのである。

 反対に、オタク達の想像力と願望を膨らませやすく、脳内補完や二次創作の余地の大きな美少女キャラクターであれば、作中で断片的な描写しかされていなくても十分に「萌え」の対象に選ばれるし、まともな描写を殆ど欠いたキャラクターさえ「萌え」の対象に選ばれることもある。00年代後半から人気を博した『THE IDOLM@STER』や『初音ミク』のキャラクターなども、人物像が必ずしも精緻に描写されているわけではないが、願望や想像力を膨らませるのに必要十分な特徴(萌え属性)を与えられており、まったく問題なく人気を集めている――というよりもむしろ、不必要な描写や情報をキャラクターから徹底的に省いているからこそ、脳内補完や二次創作に最適化されている、と表現したほうが正しいかもしれない。

 こと「萌える」に関しては、描写の精緻さやリアリティなどは必ずしも問われないのである。

 →つづき『6.自己愛を充たしてくれる対象としての「萌え」キャラクター』を読む


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