・恥をかくのはそんなに悪いことなのか
多くのトライアンドエラーには失敗が含まれ、そうした失敗・失恋・挫折を恥ずかしいとみなす人は案外多い。また、「分からないことを聞く」を無知の露出として恥ずかしがる人も少なくない。とくに自分自身の価値に疑問を感じているような人の場合には、こうした一つ一つの失敗や恥に遭遇するたび、自分自身の価値が暴落したかのように体感されやすく、ひとつ恥を感じるたびに自分が全否定されたのように思い込んでしまいやすい。恥に敏感な人達にとって、恥と体感される諸々は辛い経験であり、あわよくば避けて通りたい痛みでもある。
このため、恥に敏感な人ほど、自分が恥ずかしくなりそうなトライアンドエラーやリスクを極度に回避する処世術になりがちだ。
彼/彼女らは、自分が失敗しそうにない領域に閉じこもろうし、そこでの安全な蓄積を好む。かつて、こうした恥回避の処世術は1970~80年代前半生まれのオタクでこそ観測しやすかったが、現在はインターネットが広範に普及したこともあって、ネット上の広範囲で観測できる。アニメやゲームに籠もる者であれ、そうでない領域に籠もる者であれ、しこたま知識やノウハウを溜め込んでいる領域では居丈高になっておいて、それ以外の分野では亀のように首を引っ込めておく――こうしておけば、その分野以外の経験蓄積はストップしてしまうかわりに、恥に伴う無価値感やストレスを最小化できる、というわけだ。
もちろん、好きこのんで恥をかきたがる人なんていないので、このあたり、程度問題ではある。けれども、こうした処世術を何十年も続けてしまった人は、その長年の積み重ねによって、パーソナリティも社会適応も、不可逆なところまで偏りきってしまう可能性があり、“そのようにできあがってしまった中年”に失敗や恥の屈辱回廊をのた打ち回りなさいとアドバイスするのも無茶な話だろう。
だから、恥に対して敏感すぎる処世術をどうにかするなら、若いうちのほうがいいし、実際、社会の側も若い人の失敗には相対的に寛容でもある。そういう意味では、学生時代に中二病がやれるような人は、中二病に伴う恥を徹底回避した学生時代の人よりは、長い目で見れば多くのトライアンドエラーを体験できて良い、と言えるかもしれない。
【恥をかくということは、そんなに悪いことなのか】
ところで、恥をかく・失敗することは、そんなに悪いことだろうか?
恥をかけば、純-心理的にはストレスになるし、心理的に脆弱な人ほど、そのストレスダメージに伴う自己評価や気分のブレが問題になりやすい。しかし、そうした主観的で純-心理的なダメージ以上に、恥はあなた自身の価値を高めたり低くしたりするものなのだろうか?
・誰が、あなたが恥ずかしいと思っている行動をまなざしているのか?
・その恥は、現場に居合わせている第三者から見て、あなたに対する評価を下げるような恥なのか?
・なおかつ、その第三者は、これからも長い付き合いが想定される人物で、重要な人物なのか?
・その恥や失敗は、挽回不可能だったり修正不可能なものなのか?
・むしろ年齢相応ではないのか?
・逆に、今しかかけない恥というか、将来かきにくくなるような恥ではないのか?
・その恥を経由しなければ獲得できない視点や境地はないのか?
上記のような視点から自分がかいた恥(またはこれからかこうとしている恥)について検証した時、恥や失敗というのは、意外とマイナス一辺倒に評価しにくいような気がしてこないだろうか。特に若い人の場合は。
こうした、恥や失敗についての視点は、主観的で純-心理的なダメージに打ちのめされている人には盲点になりやすく、見逃されてしまいやすい。そうした思考停止はホモ・サピエンスの心理的仕様のようなものだから、仕方ないことだとは思う。けれども、純-心理的なダメージを度外視する限り、恥や失敗にまつわる算盤勘定がマイナス一辺倒ということは珍しいし、思春期前半の幾つかの恥・失敗・挫折が後になって活きてくるケースは数多い。そこを踏まえたうえで恥や失敗について考えると、むしろ必要な時期に避けてはいけない恥や失敗がある、ということが想定されてくる。あるいは、「今、恥をかいておかなければ後でもっと酷い目に遭うような恥」や「ここでやっておくと後で利いてきそうな失敗」の存在が見えてくるというか。
恥に伴う心理的ダメージを「痛いから嫌だ」と感じるのは正当だし、できれば痛みを避けたいと思うこと自体はまともだとは思う。けれども、その痛みを恐れるあまり、何もしない・何もできない方向に流されていき、ますます恥による心理的ダメージにおびえながら活きていくのは勿体ないことだし、自ら人生の選択の幅を狭めるようなものだと私は思う。
無意味な恥に伴う不要な心理的ダメージは避けるべきだ。と同時に、有意味な恥をかいて必要な心理的ダメージに耐えることは、未来の自分の礎を築くにはどうしても必要でもある。そのあたりの、無意味な恥/有意味な恥をよく見極め、後者に対しては果敢な心理ドクトリンを若いうちに形成しておくことは、適応の幅を広めるうえで重要だと思う。と同時に、そのようにして恥や失敗と付き合い、恥や失敗の有意味性について一定の考えを持っておくことが、必要不可欠な恥や失敗に際しての心理的ダメージ軽減にも繋がって、良いように思う。