7.未熟な自己愛の処世術(2)水平分裂

 こちらの続きです。

【(2)水平分裂ポジション】

 未熟な自己愛の人によくみられるもう一つの処世術は、“高い要求水準を相手に期待して失望や不満に陥るのを端から避けるために、自己愛を充たしたい気持ちに蓋をしまくる”処世術だ。こちらは、自己心理学の用語としては「水平分裂」と呼ばれている。

 「水平分裂」のスタイルを採っている人は、もしかすれば自己対象として期待できるかもしれない人間に出会っても、そう簡単には喜ばない。まして、承認や賞賛を集めたいといった、ダイレクトに自己愛を充たして貰えそうな期待に胸を焦がすようなことも滅多に無い。むしろ、突っぱねるか、回避するか、相手との接点を最小化しようとする。自己愛の成熟度合いが未熟で、ハイレベルな要求水準で自己対象を求めていても――否、ハイレベルに求めるせいでぬか喜びに終わってしまうからこそ!――欲求に対して消極的・警戒的な意識になるのが「水平分裂」の特徴だ。

 褒めて貰って自己愛を充たすにしても、誰かを理想化して自己愛を充たすにしても、その際の要求水準が高すぎれば、自分が求めている水準のものが体験できずに裏切られた・傷ついたと感じやすい。それぐらいなら、希望を捨てたような意識になっておいたほうが、心が傷ついたり失望しなくていいじゃないか、というわけだ。

 もちろんこの「水平分裂」も、未熟な自己愛の人にとってbestの処世術というよりは、あくまでbetterな処世術でしかない。彼らが本当に望んでいるbestは、ハイレベルな要求水準がまかり通るぐらいのハイレベルな自己対象と出会い、持続的に自己愛を充たせる境地だ。しかし、そんな高望みが世間で通る可能性は極めて低いわけで、「水平分裂」というbetterな処世術が妥協的に形成されるのだろう。

 このため「水平分裂」に該当する人は、対人関係を深めることに対して警戒的で、極力目立たないように振舞う一方、いったん自己対象として期待出来そうな相手と認めるや、極端にハイレベルな要求水準をみせはじめて相手をびっくりさせやすい。普段は非常に控えめな人が、自分を認めてくれた異性や、高い理想を仮託させてくれた同性などに対して、突然トーンの高いラブレターを送ってみたり、“駄目な俺をありのままの受け入れてくれ症候群”的な振る舞いをみせはじめるようなら、「水平分裂」の蓋が取れかけて本来の自己愛を求めてやまない気持ちが前に出てきている、と考えて差し支えないだろう。

 しかし、こういう[自己愛を充たしたい欲求を抑圧しまくって→蓋がとれたら大解放] という振る舞いでは、まず間違いなく相手をドン引きさせてしまうだろう。そうなると、せっかく久しぶりに素直になった気持ちが潰えてしまう確率はどうしても高くなってしまい、“自分の欲求を出しても、どうせ裏切られて傷つくだけなんだ”と学習してしまう結果に終わってしまいやすい。そうなると、ますます日常の対人関係には臆病になってしまって、遠巻きな人間関係しか作れない状態が続いてしまいやすい。

 そして、少なくとも人間関係という次元では、鏡映自己対象理想化自己対象双子自己対象いずれを体験する機会は相当に少なくならざるを得ない。とはいえ、自己愛を充たしたいという欲求を丸出しにして辛酸を舐めるよりマシなので、「水平分裂」という処世スタイルは放棄されることなく、何年も何十年も続いていく。

 ここまで書いたように、「水平分裂」という処世術も、その場のストレス回避や傷つきの回避には適している。しかし、社会適応や人間関係の可能性を広く保つには向いていない。しかし「(2)垂直分裂」と同じく、こんな不器用な処世術にしがみつくからには相応の背景(=未熟で要求水準の高い自己愛)があるわけで、その背景の部分が変わらない限りは放棄し難い処世術なのだろう、という点には思いを馳せておきたい。


【垂直分裂と水平分裂の共通点、両者のスイッチングについて】

 結局のところ、垂直分裂/垂直分裂のどちらも、

 ・未熟で要求水準の高い自己愛の人が、自分自身の傷つきを防ぐリスクを最小化し、
 ・リスクを最小化することでメンタルヘルスを保つうえでは非常に有効

 という点では共通しているし、

 ・そのかわり、対人関係や社会適応の幅を広げるには向いていない
 ・未熟なままの自己愛は、大抵はそのまま保持される
 
 という点でも共通している。

 尊大で誇大的な「垂直分裂」と、過剰警戒的で卑屈にみえる「水平分裂」は、一見すると正反対、水と油のように対照的な処世術にみえるかもしれない。しかしこれらはコインの表裏の関係にあり、表面的な振る舞いは正反対ながらも、自己愛の傷つきを最小化するための処世術という点では共通している。

 実際、一人の人間が(状況や相手によって使い分けるような形で)「垂直分裂」と「水平分裂」の両方を使い分けるというのは全く珍しくない。

 一例を挙げると、特定のネットコミュニティの内部では内弁慶で、それ以外の人とのコミュニケーションでは非常におとなしく控えめな振る舞いをみせる人などは、垂直分裂/水平分裂を(状況や相手によって)使い分けている、と言えるだろう。こうして両者をスイッチングできていると、尊大で誇大な振る舞いで自己愛を充たせる場面では最大限に自己愛を充たしつつ、それが無理な場面では首を引っ込めた亀のようにしてストレスや傷つきを回避できるので、どちらか一方に固執している人よりずっとマシな社会適応が実現できる筈だし、実際、自己愛があまり成熟していない人であっても社会適応が維持できている人のなかには、垂直分裂/水平分裂の切り替えに長けている人や、それに近い処世術を取っている人がかなり混じっている。もし、そのスイッチングが何らかの理由で出来なくなるか、へたくそになるのでない限り、そういう人が心療内科や精神科を受診するところまで追い詰められることは割と少ないだろう。

 しかし、スイッチングさえ巧みならそれで良しとしていいのか?
 
 垂直分裂/水平分裂どちらの処世術も、人間関係や社会適応の幅を制限するという“副作用”を孕んでいるし、未熟なままの自己愛が傷つかないようにするには適していても、自己愛を成熟の方向へと傾けるには向いていない、という点に注意が必要だ。今、この場の社会適応やメンタルヘルスを保つには向いているが、それが長期スパンで持続したらどうなるのか・配偶関係や子育てのような持続的な人間関係にどのような影響を及ぼすのかを考えると、これらの処世術さえあれば良いとはとても思えないからだ。


 →続き(8.どのようにして自己愛は成熟していくのか)を読む


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