3.自分に似た対象を介して自己愛を充たす(双子自己対象体験)

 コフートは、ここまで挙げた[1.他人を映し鏡にして自己愛を充たす]と[2.理想の対象を通して自己愛を充たす]を重要視していたけれども、亡くなるちょっと前になって、もう一種類の自己愛の充たし方を付け加えた。それがここで紹介する[3.自分とよく似た対象を通して自己愛を充たす]だ。
 
 近親憎悪のようなことが起こらない限り、自分自身によく似た相手や、似たような境遇を抱えたような相手と一体感が感じられた時も、自己愛が充たされて心強くなるんじゃないの?というわけだ。

 ・例えば、入学したばかりの高校で自分と同じ境遇・趣味の仲間を見つけた時。
 ・例えば、似たような才能と経歴を持つ者同士が、お互いが理解しやすいと感じた時。
 ・あるいは、遠い海外の街を旅している時に、同じ都道府県出身の日本人と知り合った時。

 こういった、「自分と似たような者をみつけ、共通点を感じたり、理解しあえているような一体感(あるいは錯覚) 」は、今まで紹介してきた二つのタイプどちらかに分類しようと思ってもちょっと難しい。特に、故郷を遠く離れた土地で同じ方言・同じ言葉を話す人に出会った時の感覚などには一種独特のものがあり、そういう時には[3.自分とよく似た対象を通して自己愛を充たす]がどうやら別カテゴリらしい、ということを認識しやすい。

 また、学童期〜思春期にかけては、自分とよく似た境遇や才能を持った仲間と出会い、つるむことによって[3.自分とよく似た対象を通して自己愛を充たす]が仲間内で成立しやすい。勉強であれ、悪戯であれ、趣味であれ、仲間同士との間でこの自己愛の充たし合いが成立していれば、仲間内での共同作業や切磋琢磨がうまくいきやすくなり、共通した困難(例えば受験勉強、スポーツ大会のような)にも立ち向かいやすくなる。

 この年頃の男女の行動のなかには、いわゆる“連れション”のように、一見すると意味不明のようにみえる集団行動がみられがちだが、[3.自分とよく似た対象を通して自己愛を充たす]という観点からみれば、あれもそれなり有意味で、必要な確認行為なんだということが理解しやすくなる。

 逆に、学童期〜思春期にかけて自分に似た仲間を見つけられないで“ぼっち”になってしまうと、どれほど師匠や書物を尊敬し、大人から高く評価されていたとしても、学生生活が息苦しくなってくる。このことが示しているように、少なくとも人生のある時期、自分によく似た誰かと自己愛を充たしあえるような体験が必要になる時期というのは確かにあると思われ、自己愛を充たす補給線として無視できないと思われる。もちろん思春期を過ぎた後も、自分とよく似た誰かを見つけ、その人と共にいられるという体験が勇気やタフネスの原動力になる瞬間は珍しく無い。

 以上、[1.他人を映し鏡にして自己愛を充たす][2.理想の対象を通して自己愛を充たす][3.自分に似た者を通して自己愛を充たす] の三系統の自己愛の充たし方について簡単に説明してみた。どの場合でも、自己愛を充たすには対象※1が必要で、ただし、充たし方の形式や経路にはバリエーションがある、ということが理解していただけたなら、オッケーだと思う。

 ※1多くの場合は生身の人間が対象となるが、ときには音楽・学問体系・国家プロジェクト・宗教といった、人間以外の事物が対象となることもある。また最近では、キャラクターコンテンツのようなものが自己愛を充たすための対象に選ばれる頻度が増えている。

 そして自己主張より謙遜を美徳とし、「出る杭は打たれる」という諺もあるような日本人の場合、[1.他人を映し鏡にして自己愛を充たす]は文化的には美徳とされていないため目立たないので、これだけを見ていても日本人の自己愛の全貌は捉えにくい。このため[2.理想の対象を通して自己愛を充たす]や[3.自分に似た対象を通して自己愛を充たす]を含めて自己愛について議論できる自己心理学のようなモデルでなければ、日本人の振る舞いの背景にある自己愛絡みの動機・欲求を理解するのは難しいと思う。そしてあらゆるものに魂や神を意識する八百万(やおよろず)の国・日本であればこそ、人間以外の対象も含めて自己愛充当を分析できる自己心理学の強みが遺憾なく発揮されるんじゃないのかな、とも思う。
 
 
 →続き(4.自己愛を充たしてくれる対象を「自己対象」と呼ぶ)を読む


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