・「0か100か思考」対策の第一歩


 男女を問わず、自分自身に自信や価値が根本的に欠けているような人、あるいは病的というほどではないけれども自己愛の成熟度合いが低めの人に高頻度でみられる思考傾向に、「0か100か思考」というのがある。この「0か100か思考」という造語的表現で示したいのは、自分や他人を評価する際に「絶対的に素晴らしい」「絶対的にダメ」の両極端に走りがちで、50点や70点といった、中間的な価値づけが困難な思考傾向のことだ。
 
 この心的傾向を持つ人は、自分自身に関しては、[有頂天にあらずんば、全くのどん底][自分が素晴らしく感じられる状況か、自分がクズのように感じられる状況]という二極の間を行ったりきたりすることが多く、心理的な安定感を欠くこと甚だしい。この傾向が極端な人が精神科を受診すると、2012年現在、高確率で双極性障害(bipolar disorder、躁鬱病とも)と診断されてしまうだろうし、たぶん私もそうする※1※2。後に成熟していく人でも、若い頃はこうした思考傾向が多かれ少なかれ強まりやすいと知っていても、だ。
 
 ※1ちなみに、現在の国内外のトレンドおよびDSM-IVの診断体系の構造上、性格傾向や思考傾向がどのようなものであれ、振る舞いとして双極性障害の診断基準を満たす限りは双極性障害と診断し気分安定薬を処方するのは「適切」ということになるのだろう。だが、私が臨床場面で出会った範囲には、ガチな躁鬱病のようなギラつきもなければ気分安定薬への反応性も乏しく、生活歴・症状・対人関係からもパーソナリティの偏倚が濃厚に疑われ、そのような人が自信がついてきたり自己対象に恵まれたりしてくると気分の動揺性がピタリと消えてなくなる症例が確かに存在していて、これを双極性障害と一緒くたに診断して気分安定薬漬けにする臨床的意義とは何なんだろう、と考えさせられることがある。尤も、双極性障害にくわえてパーソナリティの水準でも偏りがひどい、というダブルパンチな事例もけして少なくないので、この問題を[パーソナリティの問題か?それとも双極性障害か?]の二者択一的に考えるのは良くないと思う。そもそも、DSM-IVにおいて、双極性障害は一軸に/パーソナリティ障害はニ軸に配置されており、両者を併記しても構わないのだから。こうした診断学上の問題は、DSM-5になった時に再統合されるものと期待される。
 
 ※2また、境界パーソナリティ障害Borderline Personality Disorderの診断基準をみたす人などにも、ここで書いた「0か100か」の傾向がしばしば該当するが、そういった、精神医療のガチな適用範囲になるような人は、このウェブサイトの適用範囲外である。

 また、このタイプの人は、自分自身の評価だけではなく、他人に対する評価も「0か100か」になりやすい。先生や友人を「素晴らしい人」「信頼に足りる人」と思い込んだら、一目散に理想化して、やたら入れ込んでしまうことがある。かと思えば、素晴らしさや信頼に翳りがみえると、掌を返したように扱き下ろすか、批判してしまう。このような態度は、身の回りの人間に対してだけではなく、ミュージシャンや哲学観念や政治運動に対して起こることもある。右派・左派の間を行ったり来たりするような人物のなかには、「0か100か思考」の強い人間が、過剰な理想化と幻滅を繰り返している人が混じっているかもしれない。
 
 同じ傾向は、オタクの世界でもしばしば観察される。一般に、コンテンツに登場するキャラクターは欠点の描写が少なく、理想化自己対象として適していることが多い。反面、その過剰な理想を引き受けたキャラクターが、理想に合致しない素振りをちょっとみせただけで、オタク達の評価が100から0へと急降下することは有り得る。最近では『かんなぎ』のヒロインが処女ではない疑いが発生しただけで、ヒステリックな反応が湧き起こったことが記憶に新しい。

 こうした「0か100か思考」の傾向は、過剰な理想化→幻滅のために、安定した対人関係、特に誰かを師とあおぐような形の人間関係を続けるのに向いていない。また、自己評価の両極端っぷりも、対人関係の安定や時間のかかるトライアルを阻害しやすく、社会適応の幅を大きく制限することになる。
 
 「0か100か思考」な人の人生は、喩えるなら、政変続きの国の政治のようなものだ。政変続きの国は、政治も外交も安定せず、行き当たりばったりで一貫性を欠きやすく、短期的な施策しか実行に移せない。同じく、両極端な評価の間を揺れ動く人物は、指針も対人関係も安定せず、行き当たりばったりで一貫性を欠きやすく、短期的なトライアルしか実行に移せない。そして100の評価が80や70に下がるだけで済む人なら継続できるような人間関係やトライアルも、いっぺんに評価を0にしてしまうせいですぐに潰えてしまう。

 なお、この「0か100か」思考は、当人にとって執着の強い対象ほど、色濃く反映されやすい。例えば、割とどうでも良いことに対しては0〜100の連続的な評価が可能な人でも、色恋沙汰や親密な人間関係になったとたん「0か100か」の両極端になってしまう、というのはよくある。執着が強い場面ほど、制御困難になりやすい。


【じゃあ、どうすれば良いの?】
 
 長期的には、自分自身に自信を蓄積していくこと・自己愛の成熟をすすめていくことこそが、根本的な解決ということになる。あるいはE.エリクソンが存命なら「アイデンティティを確立することだ」と言いそうでもある。心理学的な着眼点はどうあれ、とにかくも心理的に安定した境地になれば、ちょっと風が吹いたぐらいでは自己評価が乱高下しなくなるし、他人の欠点がちょっと見えたぐらいで幻滅しなくもなろう。「心理的に不安定な境遇ほど、自己評価や他者評価は乱高下しやすく、気分も乱高下しやすい」――思春期において、「0か100か思考」が一時的に強まるのも、つまりそういうことだろう。

 言うまでも無く、そうした思考傾向をすぐに変えられるとは思わないほうがいい。特に思春期の前半の人は、「私はこういう人間である」というアイデンティティがリセット状態に近いので、心理的な余裕のある人は珍しい。スクールカーストで優位を占めている人でさえ、「0か100か思考」にある程度は振り回されるだろう。逆に言えば、思春期前半に「0か100か思考」が多少みられるからといって、深刻に考えすぎるのも考え物、ということでもある。
 
 また、パーソナリティ傾向として自己愛がより脆弱だったり、スクールカースト的/環境的に自信蓄積や自己愛充当が難しい情況が続いていれば、安定した自己評価の確立はさらに難しくなるし、自信蓄積やアイデンティティ確立が長く遅延している場合も、「0か100か思考」を根本解決するのは困難になる。この思考傾向を軽減するためには、自分自身に自信やアイデンティティや自己愛が継続的に得られるか、ゆるゆると向上していくような時間を一定期間必要とするので、その一定期間を得られるような環境・下地が必要とされる、と思われる。そうした環境・下地は、もちろんパーソナリティ傾向そのものにも左右されるが、適応にまつわる積み重ねやドクトリンによっても左右されやすいし、そうした積み重ねやドクトリンの累積効果によってパーソナリティ自体が(微弱な)影響を受けることを思うにつけても、日々の綜合を軽視してはいけない。

 そして、万能の回答ではないにせよ、スタートラインとしては、まず自分自身の「0か100か思考」という偏った思考傾向を意識するではないかと思う。自分自身の「0か100か思考」に気付けば、そこで立ち止まって考える余地が生まれてくるかもしれない。「分かっちゃいるけどやめられない」人がいるのも事実だが、「分かったうえで意図的にブレーキをかける確率」をあげるためには、まず気づかなければならないというのも事実である。気づいても全く自己制御できない人・開き直るばかりの人はどうしようもないが、そこで自己制御可能な人には、改善の余地がある。
 
 あるいは、100と評価したくなるものを予め80〜90ぐらいに評価するよう意識しておけば、後になって過度の理想が裏切られたとか思わずに済むようになるかもしれない。もし、あなたが100の期待を感じたとき、100そのままや0の評価への扱き下ろしを目指すのでなく、あらかじめ80〜90ぐらいに評価を調整するように努力してみる癖をつけてみること。嫌いなものに10点加点するより、好きなものを10点減点するほうが楽な人にはお勧め。


【どうでもいい分野のほうがやりやすいかもしれない】
 
  先にも述べたとおり、執着の強い分野ほど、「0か100か思考」は猛威を振るいやすく、立ち止まって考えるのが困難になりやすい。例えば、色恋沙汰の分野で「0か100か思考」を意識するのは、あまり関心の強くないジャンルの交友関係などに比べて意識が難しい。だから、「0か100か思考」に対して立ち止まって考える練習は、あまり執着の強すぎない分野で始めたほうがおそらく無難で、対人関係の場合、異性よりは同性に対して検討したほうがやりやすいだろうな、とは思う。

 この「0か100か思考」は、それ単体でも社会適応の幅と可能性を狭めやすく、心理的な未成熟さ・成長途上さが実生活に影を落とす最たるもの、と私は考えている。自分自身の操縦しやすさに直結する分野なので、可能な限りどうにかしていきたいところ。


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