変容性内在化 transmuting internalization

 
 人間が自己対象との一体感を介して自己愛を充たしているとき(=自己対象体験)、自己対象として主観的に体験されている対象のイメージと、実物そのままの対象との間には多かれ少なかれギャップが存在することが多い。

 例えば、ホステスにチヤホヤされている男性が自己愛を充たしているとしても、そのホステス自身は客のいない場所で醒めて退屈な表情を浮かべているかもしれないわけで、無意識な期待や願望を含んだまま体験される主観的なイメージと、素のままの相手がイコールということは現実にはありえない。そこまで極端でなくても、「理想の先生だと思っていたのに見損なった」というような形で、理想と現実のギャップに気づいて落胆するような経験は誰にでもあるだろう。

 しかし、こうしたギャップへの気付きが許容可能なレベルの場合には、ギャップに対する許容度は少しずつ向上する。上述の例で言えば、「理想の先生」に一度落胆しても、「やっぱりそれでもあの先生はたいしたものだし、頼っている」と再実感できるような場合には、求めるイメージと先生の“なかのひと”とのギャップへの許容度が少し改善するだろう。こうした 「自己対象と素の相手とのギャップへの気付き→許容度の向上」 という出来事を、コフートは変容性内在化と呼んだ。
 
 自己愛を充たすために相手に思い浮かべ、主観的に体験しているイメージと素のままの対象や“なかのひと”とのギャップ許容度が向上するということは、自己対象への要求水準が少しずつ下がっていく、ということでもある。変容性内在化がじゅうぶんに起こっている人は、幼児が父母に対して期待するようなハイレベルな自己対象でなくても一体感が感じられるようになっていくし、ちょっとぐらいのギャップを自己対象に見いだしても問題が生じなくなっていく。
 
 対して、変容性内在化がろくに起こっていない人は、ハイレベルな自己対象でなければ一体感が感じ取れない人・自己対象にギャップを感じたらすぐに「裏切られた」「失望した」になってしまう人になってしまう。このため、これまでに変容性内在化をどれだけ積み重ねてこれたのかは、自己愛の成熟度合いに直結しているし、自己愛の充たしやすさ&充たしにくさにも直結している。そして、自己愛充当の流動食とでもいうべき、太古的で欠点の見えにくい自己対象にばかり心奪われてしまうリスクも高い。

 こうした変容性内在化は、適度に失敗することもあるような親の元で育てば大体自然進行する、といわれている。変容性内在化が起こらない条件としては、養育者と幼児とのやりとりのなかで急激な失望が持続してしまう場合などが挙げられる。養育者(や周りの人達)を自己対象として体験しにくい状態が持続しているような状況下では、変容性内在化におあつらえむきな適度な失望にはなりにくい。あるいは急に親が病気になってしまった場合なども、急激な失望になってしまいやすい。また、コフート自身は触れていなかったが、子ども自身が発達障害のような要素を抱えていて、それがために親子のやりとりが巧くいかない場合にも、こうした変容性内在化の進行不全は起こりえると思われる。

 ・コフート自身は、自己心理学の心理療法の要として、治療者-クライアント間で変容性内在化が起こることが大切だと説いていた。つまり、クライアントが治療者を自己対象として体験しつつ、適度な失望なり、“雨降って地固まる”なりがちょっとずつ起こることが、自己愛パーソナリティ傾向の治療論として大切だよね、というような事を書いていた。

 ・ただし、「クライアントにわざと失望や失敗を押し付けてもダメ」というような事も言っている。だから治療者-クライアント関係をわざと揉めるようにするのは、多分まずいだろう。また、自己心理学の論者のなかには、この変容性内在化や適度な失望をあまり重視せず、クライアントが治療者を自己対象として体験できるか否かをコフート以上に重視する立場の人も存在する。
 
 ・けれども実際の人間関係、ことに自己愛パーソナリティ傾向が強めの人との治療者-クライアント関係のなかでは、クライアント側が期待する自己対象イメージと実際の治療者とのギャップが露呈するのは避けられない。このため、“適度な失望”または“雨降って地固まる”が起こるかどうかの瀬戸際的状況はどのみち不可避ではある。そのギャップにクライアントが遭遇した瞬間、(一時的にクライアントが失望や苛立ちを感じることはあるかもしれないにせよ)どのように“適度な失望”“雨降って地固まる”に持っていけるかどうかは、治療者の腕の見せ所ということになる。しかし多分にそれはエビデンスなどとは無縁の、職人芸である。

 ※ちなみにシロクマ個人は、カリスマ的な治療者を演じすぎようとしている人ほど、このギャップが大きくなりやすく、かえって制御しにくいのではないかと疑っている。素のままの治療者と、すばらしいカリスマを演じる「キャラ」としての治療者のギャップをクライアントがみた時、耐え切れないほど大きなギャップであればあるほど、変容性内在化が起こりにくく、むしろ治療者-クライアント関係が制御不能になりやすそうだ。だから、過剰に理想の治療者を演じすぎたり、過剰にクライアントを褒めすぎたりするような治療者は警戒する。その一方で、素の治療者をそのままぶつければベストかというと、たぶんそうもいかない。それはそれでクライアントにとっての自己対象として体験されにくくなってしまうという問題が生じやすくなってしまって、端から変容性内在化どころではなく、自己愛パーソナリティ傾向なクライアントは皆一度きりの受診でそっぽを向いてしまうだろう。ここらへんの湯加減と“適度な失望”“雨降って地固まる”の瀬戸際のやりとりが、コフート系の面接技法では極めて重要なのは間違いないが、この、繊細な綱引きのような意識を自家薬籠中の物にするのは大変だ。変容性内在化の起こりやすさを保持するには、ある程度はクライアントの自己対象を引き受けることも大切だが、過剰に自己対象を引き受けすぎてしまわないことも大切だと思われる。

 ※変容性内在化をこうして言語的に意識するのは自己心理学の好きなセラピストだけかもしれないが、実際には、この現象自体は世間の人間関係のなかでも起こっていると考えられる。少なくとも、過剰な理想化が起こっていない自己愛の充たしあいのなかでは、変容性内在化が進む余地はあると思われるし、大人になってからの変容性内在化をセラピストの専売特許と考えるのは間違っているとも私は思う。

 →参照:理想化自己対象鏡映自己対象双子自己対象、自己対象体験、自己対象転移  

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