自己愛 narcissism

  それが充たされない状態が持続するとメンタルヘルスに悪影響を及ぼす、一体感への欲求。人はしばしば、現実的・経済的な算盤勘定よりも、この、一体感への欲求を充たすよう動機づけられて行動する。称賛の声や人望に包まれて自分が大きくなったような一体感・理想を引き受けてくれるような対象との一体感、などのためなら人は労苦や金銭を厭わない。

    物凄く乱暴に言うなら「自己愛=何か(誰か)との一体感を感じたい欲求」と表現してもいいのかも。

    自己愛、すなわち一体感への欲求を求める程度は、個人ごとにかなりの差がある。幼児や自己愛パーソナリティ障害の人は、自己愛を充たさなければならない頻度も程度も甚だしいが、まず順調に成熟した大人であれば、その頻度も程度も少なめとなる。しかし、この一体感への欲求がゼロになるということは無い。人は、生涯自己愛を充たさずにはいられない生き物であり、三度の食事が身体の維持に必要なのと同じく、自己愛充当をメンタルの維持に必要としている。少なくとも、自己心理学ではそのように考える。    

・人は、一体感を充たしてくれるような対象(というよりはその対象へのイメージ)を求めずにいられない。→参考:自己対象   

・コフート以前のフロイト-ハルトマン路線においては、自己愛は対象愛に置き換わっていく未成熟な段階、とみなされていた。けれどもコフートは「対象愛は対象愛として/自己愛は自己愛として」それぞれ成熟するものと考えた。

Kohutは自己愛は根絶されねばならないという考えに挑戦した。取り除くことによって解決するなどということそれ自体が、Kohutの議論によれば、まったく未熟な誇大自己の絶対性思考に影響されており、それゆえ自己愛的である。

R.R.リー J.C.マーティン著『自己心理学精神療法――コフート以前からコフート以後へ――』岩崎学術出版社、P139より抜粋
 コフートの自己愛理論においては、自己愛は根絶目標ではない。より建設的に利用できるように変形させていくもの・成長していくもの、というニュアンスが強い。

 ・自己愛にまつわる心理学的な議論に関しては、「だれの理論的枠組みに則って話しているのか」を意識しておく必要がある。ひとことで「自己愛」「自己愛パーソナリティ障害」と言っている場合でも、意味が全然違ってくるし、目指す目標もずいぶん異なるので。ちなみに、このウェブサイトはコフートと自己心理学をベースにしている、つもりです。

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