・オープンチャットで皆さんと話した話題について

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 こちらの続き。こちらのhtmlでは、二日目のオープンチャットで交わされた内容を書き綴っておきます。ちなみに、※印の後に、私がそのときに考えたことをメモってあります。会場の人は、茶色のフォントの部分だけ読んでやってください。

 
 二日目のオープンチャットは13人が輪になって【大人になることが難しい、誰も成長したがらない社会について】議論するというものでした。ちなみに13という数字は韓国の大詩人・李箱(イ・サン)の有名な詩からのオマージュなのだそうです(これのことだそうです)。

 

 ・まず私がロスジェネ心理学の「ロストジェネレーション」の概要について私がザッと説明。

 ・バブル景気崩壊後に就職し、就職や結婚が思い通りに進まなかった世代に対して「失われた十年(または二十年)」といった言葉が使われるうちに、00年代にロスジェネ論壇が登場

 →しかしロスジェネ論壇の論調は、「自分達は社会の被害者」的なものが中心で、それを象徴するように秋葉原では連続通り魔事件が発生。

 →確かに不遇な世代ではあるけれども、それだけじゃおかしいんじゃないですか?というのが私の考えで、子どもをつくる/つくらないとは無関係に、それぞれの立場のなかで出来るだけ上下世代に思いを馳せながら生きていくのが大切ではないか・大人になるというより大人をやるに近いアングルじゃないかと説明してみた。

 

 ・続いて、社会的企業「悠々自適サロン」のジョン・イルジュ代表がマズローの欲求段階説を引用しながらパワーポイントで解説。 

 ・386世代と言われた先行世代は、マズロー風に言えば所属欲求や承認欲求が豊かな世代だった、というのも彼らにはコミュニティが強固に存在していたからだ。しかし彼らは安全欲求や生理的欲求に相当する衣食住については、とても貧しい世代だった。彼らが活躍し、韓国社会は物質的には豊かになった。

 ・ところが、例えばX世代のような若い世代においては、所属欲求や承認欲求をコミュニティ経由で充たすのは乏しくなっている。関係性にまつわる心理的欲求があまり充たせない状態。イルジュ代表は、「マズローのピラミッドが砂時計型に歪んだ図」を図示し、韓国の(そして日本の)私達の世代は、自己実現欲求と安全欲求/生理的欲求ばかりが異様に充たされ、関係性にまつわる心理的欲求がやたら少ない状況に初めて遭遇した世代だと話されていた。過去の世代が達成したことを知り、現在以後の世代の課題を知る私達は、つなぎの世代に相当すると感じるが、果たして、本当に中間としての役割を果たせるのだろうか?と不安も表明していた。

 ※日本の団塊世代に似て、高度成長のなかで働き続けた386世代は、物質的な豊かさを享受できればそれで幸せだと思える世代だった。マズローのピラミッドで言えば最もベースにあたる、安全欲求や衣食住の欲求が脅かされていたからこそ、そこが充たされることが心理的な満足に直結していた。反面、コミュニティがしっかりしていたため承認欲求や所属欲求の悩みが前景に出る人は少なかっただろう。しかしX世代以降はこの限りではなく、安全欲求や衣食住が充たされ、コミュニティが乏しく個人主義的な状況のなかで承認欲求と所属欲求を充たせるか否かが問われるようになった、という話はまったくそのとおりだと思う。

 ちなみにジョン・イルジュさんは、「自己実現欲求は、誰もが目指すべきもの」と考えているっぽい等、おそらくマズローの自著にアプローチしていないと思われる兆候がみられたけれども、論旨とは関係のないところではあるし、なるほど、韓国ではちょうど現在が自己実現というワードが流通しているのだなと腑に落ちるところがあった。ちなみに、このサミット参加中、かなり多くの人(それも精神医学畑ではなく教育系とおぼしき人)の口から自己実現というワードが発せられていたので、このあたりも少し前の日本のトレンドを踏襲しているようで興味深かった。

 

 ・続いて、ストライプの服を着た女性が登場。

 心理系職業でキャリアアップを目指していたが、出産をきっかけにうつ病になってしまった(注:産後うつ病なのか否かはちょっとわからない)。仕事をしたい・キャリアアップしたい気持ちと子育ての負担が交錯して、なかなか子育てに前向きにはなれていなかったが、やがて子育てと仕事の両立を模索するようになり、遂に「子育てしながら働ける会社」を作ってしまった。これを韓国政府公認の社会的企業に育てたいと考えているが、なかなか公認が得られない。

 面白いのは、そんな彼女が友達の子ども(A)の不良状態について相談を受け、「自分は心理職だから任せて!」と張り切って挑戦したエピソード。自分の家をA君が自由に出入りできるようにし、お菓子を出してもてなしているうちに、A君が友達を連れてきてサロンとして使うようになった。そうこうしているうちに、彼女はだんだん影響を受け、彼女の友達の気持ちもA君の言動も穏やかになっていき、一石三鳥以上の結果が得られた。

 ※生殖性に芽生えるきっかけが子どもを産むとは限らないかも点や、A君周辺の集団力動についてあれこれ考えたくなる話だ。彼女にとっての生殖性は、自分の子育てではあまり発揮されていなかったのかもしれない。しかし、自分の会社の成長や、A君との関わりでは明確に発揮されていたようにみえる。生殖性のかたちがひとつとは限らないことを示していると思う。

 

 ・隣にいた女性も、子育てにまつわる苦労話を。

 キャリア志向の女性だったが、結婚後、理屈ではわからないけれども子どもが欲しい気持ちが芽生え、挙児。ところが子育てが始まってみると、仕事との両立が困難。公園で子どもを遊ばせようにも、国の基準最低限の公園でしか用意されておらず、およそ遊ばせられるものではなかった。この経験を経て彼女は、韓国社会は子育てと仕事を女性が両立することを前提にした構造になっていないと感じた。また、子育てに対する社会の意識も街のアーキテクチャもなっていないと感じた。そのうえ上の世代からは「少ない人数の子育てなんだから出来るに決まっているでしょ?」と言われ、なかなか自分の子育ての苦労をわかってもらえなかった、とも話されていた。

 そういったたくさんの苦労があったにせよ、子育てを経験するうち、これまでの「育てる」感覚が一新されて、それまで考えていた「育てる」感覚は本物ではないような気がした、とも話された。

 ※典型的な生殖性への芽生え、というエピソードだと思う。ただし、子どもを産んだすべての女性が生殖性にギアが変わるわけではないし、子どもを産まなければギアが変わらないわけでもない点には留意。

  この女性に「あなたは、大人は、理由や根拠や考えがあって子供をつくるのか。合理的な理由や考えがあって子供をつくる決定でなければ納得できない」と会場の若い男性から質問があった。女性は「理由や根拠が合理的なものかと問われると、はっきりとそうだと答えきれない。私はとても子どもが欲しいと思ったのは確かで、考えもしたけれども、それだけでは説明できない」と回答していた。

 

 ・高そうな時計を身につけていた人

 仕事や友情に心血を注いできた女性。三年前ぐらいから、自分の(たぶん、物事に対する)感覚が希薄になってきた。それを少しずつ回復させていくにあたって、お互いをリスペクトしあう精神、上下世代の繋がりが重要ではないかと感じている(翻訳その他の都合であまりはっきり聴き取れず。)

 

 ・カーディガンを着た教育関係の人(かなり若い方)

 この女性は、親として子どもを育てているわけではないけれども、次世代の社会をつくる活動に没頭している。彼女は「守るもののある人になることが重要」だと話し、そのために役立つ場を広げていきたいと話していた。

 ※これも生殖性の形のひとつだと思うし、エリクソン的に考えるなら、たとえ彼女が若めで出産を経験していないからといって、目覚めないと考えるのは早合点だろう。それどころか、この女性が思春期心性〜早期成人期あたりに相当するとしても、生殖性の片鱗が現れ、これから更に発揮されていく可能性もある。たとえば、子ども時代に「女の子が赤ちゃんをかわいいと思う」「先輩が後輩の面倒をみる」なんてのも、遠い未来の生殖性の発現の前駆としておかしくはないわけで。

 ・灰色の服を着ていた一番近くに座っていた女性

 思春期的な「まだまだできる」「本当の挑戦はこれからだ」的な心性と、「大人になる」は両立可能なものか?と長く考えてきた。でも、子どもを産んでから考え方が変わった。そういう二律背反的に考えるものではなかったのだと。ただし、現代社会では仕事をしてお金を稼がなければどうしようもない。つい、仕事中心の人間関係や生活になってしまう。将来、次世代を育てたり育児について考えたりする社会になっていって欲しいと思う。

 ※「本当の挑戦はこれからだ」的な心性を持ったまま「大人になる」のは難しい、というのは確かにそうかもしれない。一日前の円卓会議でもオム・ギホ先生が「我が身の輪郭を知ることが、大人になるということの大きな要素」と仰っていたわけで、確かにそういう一面もあるだろうと思う。ただ、ロジックで考えて切り替えられるものでも、切り替えるべきものでもないはずで、まさにこの女性のように「経験によって変化してから人生のテーゼが変わった」人のほうが多いとは思う。女性の場合、出産からのオキシトシンボーナスや授乳による親密さボーナスがあるので男性よりはこうした切り替えが起こりやすいかもしれない。それでも児童虐待やネグレクトが示しているように、すべての女性が切り替わるわけではないし、まして、父親になった男性すべてが切り替わるわけでもない。

 

 このほかに男性が二人いたけれども、一人目の人のお話はほとんど記録が取りきれず(経済的な話題が中心だった)。最後の一人のお話は以下のとおり。

 ・緑色の服を着た男性

  家賃が高騰し、今はとにかくお金のことで困っている。webデザイナーとして会社を立ち上げて頑張っているが、今、子どもをつくるかどうかは考えている最中で答えはまだ出ていない。その一方で、「今よりも良い生活を追及する価値があるのか」わからなくなることもあるし、「もし子どもをつくるとして、グローバリゼーションに適合した子育てをしたら良いのかわからない」とも。「生殖性を考えるには、私は充たされていないと思う。」「自分のおなかが減っている」。

 ※女性が出産を軸に話を進めたのに対し、男性二人が経済的な問題を軸に話を進めたのは印象的だった。なぜ、そうなったのか?色々な背景が考えられるが、ともかくも、この男性の「生殖性を考えるには、私は充たされていない、自分のおなかが減っている」はほとんどの現代人が必ず通り過ぎるところだと思う。ここでは経済的な「おなかが減っている」だが、経済的に裕福でもキャリア・経験・自由の点で「おなかが減っている」と感じている人は少なくない。個人主義的に考えるなら、こうした考えに則って挙児を控えるのは、「合理的な判断」だと言える。しかし、この発想を突き詰めるなら、生殖性に目覚めないことのほうが個人主義的には合理的ではないか?個人主義と合理主義に基づいた考え方を徹底させるなら、誰かの面倒をみたり世話したりしないほうが「おなかは減らない」。だとしたら生殖性とは?……その価値とは……と考えさせられるお話だった。

 


 


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