・自己心理学カテゴリをお読みになる前に

 私はハインツ・コフートHeinz Kohutという精神科医が編み上げた『自己心理学』という“精神分析のなかの一ジャンル”がとても好きで、団塊ジュニア以降の世代の一般心理やステレオタイプを理解するうえで最も分かりやすく、取り扱いやすいジャンルだとみている。

 コフートという人名も、『自己心理学』という分野も、精神科医や臨床心理士でない人にとって耳慣れないものかもしれない。精神分析や心理学といえば、まずはフロイト、ユングやE.エリクソンやラカンあたりを連想する人が多いのではないだろうか。インターネットの世界では、A.マズローの欲求段階説あたりも有名かもしれない。

 では、コフートとはどういう人で、『自己心理学』ってどういう“ジャンル”なのか?
 
 なにより、“使える”のか?
 
 思うに、《現代という時代・日本という場所・ニュータウンや都市空間に育った世代》に限定するなら、コフートの自己心理学は“使える”し“合点がいく”ものだと思う。自己心理学は、ラカンのように全ての精神疾患に適用できる広さは無いし、フロイトのように19世紀末のヨーロッパ上流社会にしっくり馴染む理論でもない。そのかわり、モータリゼーションや核家族化が進行した、国道沿いのニュータウンで育った私達の世代の一般心理を扱うには滅法強い。私が精神医学を習い始めて以来、あちこちの理論をツマミ食いしてきたなかで、一番無理せず、一番余すところ無く現代日本人の一般心理を取り扱えると感じたのがコフートであり、自己心理学だった。だからこのサイトでは自己心理学を軸に、現代人にありがちなメンタリティを語っていきたいと私は思う。

 この『自己心理学』を一言で表現するなら、「自己愛についての心理学」ということになるだろう。特に、その心理的な満足が起こるメカニズムと、そのメカニズムの成熟・洗練にまつわる洞察を与えてくれる。

 もともとコフートが研究していたのは、“自己愛パーソナリティ障害※1に該当する人をどうやって心理療法で治すのか”というものだった。彼が活躍した1960〜80年のアメリカは、病的自己愛とでも言いたくなるような特徴を持った人達が目立ち始めた時期だった。そんななかで、“自己愛の充たし方がひどいことになっているクライアント”に対する治療法を暗中模索していた研究家の一人がコフートだった。

 ※1コフートが言うところの自己愛パーソナリティ障害というのは、現代の精神医学の体系知識のベースとなっているDSM-IVに記載されている自己愛パーソナリティ障害と、微妙にニュアンスが異なっている。これについては後で詳しく触れる予定。当座はこちらを参照。
 
 けれども、その後の自己心理学は、ヘビーな病的自己愛の治療に特化心理学というより、もう少し軽いレベルの自己愛のこじれや、おおむね普通の自己愛を取り扱えるような“汎用自己愛理論”とでも言うべきものへと発展した。つまり、極端に病的な自己愛だけを取り扱う為の異常心理学というより、最も成熟した自己愛〜そこそこ未熟な自己愛までを取り扱うような心理学に仕上がっていった。「現代人にありがちなメンタリティを、自己愛というアングルから取り扱うなら、コフートこれ最強」と言っていいと思う。

 「自己愛って異常なんじゃないの?」「心理学って精神疾患を治療するための技法じゃないの?」そういう疑問を抱く人もいるかもしれない。

 なるほど、精神分析の系譜に属するたいていの心理学ジャンルは、異常とみなされる心理や精神疾患を治療するべく生み出されているし、それぞれのジャンルごとに「この精神疾患を取り扱うならこのジャンル」みたいなものがある。そして、自己愛という言葉に対して、病的・幼児的な連想をする人も多いに違いない。

 例えば、自己愛パーソナリティ障害を取り扱うのが得意な心理学に、カーンバーグという人のものがある。この人はパーソナリティ障害の領域ではオーソリティで、アメリカ精神医学界の診断基準・DSM-IVにも強い影響を与えている。特に、ヘビー級の自己愛パーソナリティ障害や、境界パーソナリティ障害の治療に関する限り、自己心理学よりもカーンバーグのほうが“うまく当てはまる”と感じる場面が多い。そのかわり、カーンバーグの理論はヘビー級のパーソナリティ障害の取り扱いに特化しすぎているので、学校のクラスメートや会社の同僚のほとんどには当てはめることができない。精神科臨床では役だっても、身の回りの人間関係を考えたり、友達や恋人の行動動機を類推したりするには向いていないと思う。

 一方、自己心理学のほうはというと、ヘビー級のパーソナリティ障害の治療にはあまり向いていない。そのかわり、ミドル級以下の自己愛の問題〜ごく普通の自己愛〜成熟した自己愛までの、かなり広範囲の自己愛と、それにまつわる心理メカニズムを説明づけ、取り扱うには物凄く向いている。
 
 だから自己心理学は、2ちゃんねるニコニコ動画に入り浸っている人達の動機・引きこもり気味の男性が直面している心理学的状況 などを説明するには向いているし、フロイトやユングが想像すらできなかった、21世紀のニュータウンやインターネット空間でも色褪せずに適用できる、数少ないジャンルの一つだと思う。幸い、急速に発展しつつある進化心理学や行動遺伝学との矛盾も、今のところあまり無いほうだと思う※2

 ※2ちなみに、進化心理学や行動遺伝学とそんなに矛盾しない心理学はコフート以外にも幾つか連想される。例えばウィニコットやボウルビーの見方も、1970年代以降に換骨奪胎された進化理論との相性がかなり良いか、少なくとも矛盾が少ないと思っている。

 そんなわけで、このウェブサイトでは、自己心理学を応用して21世紀の日本人の心理適応や社会適応、晒されている危機などについて眺めていきたいと思うし、「こうしたほうが21世紀の人間は生きやすいと思う」まで提示していきたい。そこまでいかなくとも、“私達の世代”固有の生き難さや処世術を、自己心理学という視点を用いて整理することは十分に可能だろうし、先日、『ロスジェネ心理学』という書籍の形にひとまとめにしてみたつもりでもある。
 
 でも、ここでそういう効果効能をいくら蘊蓄たれてみたところで、内容をわかりやすく説明して読者の方にもわかってもらえなければしようがない。なので【このサイトを読むのに必要最低限の自己心理学】というコーナーで、この自己心理学についてかみ砕いた説明をしてみたいと思う。

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